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ロイヤル・サブリン (戦艦・2代)
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ロイヤル・サブリン (HMS Royal Sovereign, 05) は、イギリス海軍の戦艦[1]。日本語ではロイヤル・サヴリンと表記することもある[2][註釈 1]。リヴェンジ級戦艦 (Revenge class battleship) の1隻だが[註釈 2]、本艦をネームシップとしてロイヤル・サブリン級戦艦とする資料もある[2][5]。 通称R級戦艦[6][註釈 3]。 第二次世界大戦終盤にソビエト連邦に貸与され[8]、ソ連海軍の戦艦アルハンゲリスク (Архангельск) となった[9][註釈 4]。世界大戦終結後の1948年終盤、イタリアの戦艦ジュリオ・チェザーレ (Giulio Cesare) が戦利艦としてソ連に譲渡される[11]。これにともない本艦は1949年2月にイギリスに返還され、解体された[12]。愛称は『ロイヤル・ルーブル(Royal Rouble)』[13]。
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艦歴
要約
視点
竣工から戦間期にかけて

本艦は1913年度海軍整備計画で建造が承認され、ポーツマス海軍工廠で1914年1月15日に起工。1915年4月29日進水。1916年4月18日竣工、同年5月に就役した。本国艦隊 (The Home Fleet) およびグランド・フリートに所属したが、ユトランド沖海戦時には機関故障で参加する事が出来なかった[14][註釈 5]。
1930年代初頭に近代化改装が行われた。主砲の最大仰角を15度から倍の30度に引き上げて射程距離の延伸を行った。1933年には艦尾にカタパルトを配備したが1936年には早くも撤去されている[17]。1938年に対空攻撃力強化のため10.2cm単装高射砲を10.2cm連装高射砲に換装した。1939年に姉妹艦ラミリーズ(HMS Ramillies, 07)とともに箱型艦橋への改装が構想されたが実現しなかった[18][註釈 6]。
第二次世界大戦

同年9月に第二次世界大戦が開始された時に本艦は依然として本国艦隊(司令長官チャールズ・フォーブス大将)麾下の第二戦隊 (2nd Battle Squadron) に所属した。その本国艦隊からネルソン級戦艦2隻が出動したり、巡洋戦艦戦隊の高速艦3隻(フッド、レナウン、レパルス)が引き抜かれてドイツ海軍の通商破壊艦の捜索に就いている時も、低速の本艦は主だった活動はなかった。
1940年になると、本艦は、カニンガム提督が率いる地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) に編入された[21]。1940年5月4日にアレクサンドリア到着。6月10日、ムッソリーニ首相の主導によりイタリア王国がイギリスとフランスに宣戦布告して地中海の戦いが始まり、地中海戦線が形成された。 6月22日、戦艦ラミリーズ (HMS Ramillies, 07) 、空母イーグル (HMS Eagle) 、第2駆逐艦隊と共にアレクサンドリアから出撃(BQ作戦)。これは船団護衛を目的としたものであったが、作戦は延期され6月23日にアレクサンドリアに戻った。6月28日に再出撃(MA3作戦)。7月2日帰投。7月7日からMA5作戦に参加。作戦中の7月9日にカラブリア沖海戦に参加したが、本艦の低速は決定的な戦いに間に合わないばかりか僚艦マレーヤ (HMS Malaya) の優速も殺すことになった[註釈 8]。本艦はその低速から射撃距離に近付くことすらできずに海戦は終結した[25]。8月11日、アレクサンドリア出港。8月12日にスエズ運河を通って紅海に入った。これ以降ロイヤル・サブリンは1941年までの間に大西洋などでの輸送船団護衛任務に従事し、無事に果たした。
1941年12月上旬、日本海軍の攻撃によりマレー沖海戦で東洋艦隊 (Eastern Fleet) の主力艦2隻が撃沈され[26]、極東の最大拠点シンガポールも1942年2月に陥落した。東洋艦隊を再建するため、R級戦艦は同艦隊に編入されてインド洋に進出した[27][25]。最初にセイロン島トリンコマリーとアッドゥ環礁を母港として東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル提督、旗艦ウォースパイト)が編成された。だが1942年3月に南雲機動部隊がインド洋に展開して脅威となり(セイロン沖海戦)、東洋艦隊はマダガスカルとアフリカ大陸東岸まで後退した。一部は地中海に撤退し、本艦を含む残りはケニア沖まで撤退する事となり、僚艦のR級戦艦(ラミリーズ、レゾリューション、リヴェンジ)らとアフリカ沖で船団護衛に従事した[15]。その後、1943年終盤に本国艦隊に編入されたが、その直前にアメリカで修理を受けている[28]。また、ロイヤル・サブリンが本国に到着すると本艦はひとまず予備役となり、その乗組員も他艦に割り当てられた[28][註釈 9]。
第一次世界大戦時には有力な艦であった本艦およびR級戦艦も[7]、クイーン・エリザベス級戦艦より小型で低速であったことから、大規模な近代化改装を受けられなかった[15]。太平洋戦争の時点では、日本海軍の擁する空母機動部隊に対して対抗できない時代遅れな戦力となってしまった。以降、本艦はこれといった活動はしていない。
ソ連海軍への貸与

1943年9月、イタリアが降伏する[29]。第二次世界大戦開戦時、ソ連海軍が保有していた主力艦は弩級戦艦3隻であった[30][註釈 10]。 イタリア降伏時点で、健在のガングート級戦艦は2隻になっていた[32][註釈 11][註釈 12]。
ソ連はイタリア艦艇の3分の1の分配を要求したが容れられず、代わりにアメリカとイギリスから艦艇が貸与されることとなった[8]。この際にイギリスが戦艦を、アメリカが巡洋艦等を貸与することとなり、「ロイヤル・サブリン」もそのうちの1隻となった[36][28]。1944年5月30日にソ連へ引き渡されてアルハンゲリスク (Архангельск) と改名されたのち[37][38]、ソ連海軍兵士が乗り込んで[10]、スカパ・フローで訓練を実施した[39]。訓練期間は約三ヶ月に及んだという[40]。
この頃、ドイツ巨大戦艦ティルピッツ (Tirpitz) は度重なる空襲で損傷していたが、いまだに浮いていたので[41]、対抗できる本艦にはそれなりの存在価値があった[42]。 8月17日[43]、JW59船団の護衛の一隻としてイギリスを離れた[44](北極海輸送船団)。6日後、船団を攻撃したドイツ潜水艦U711艦長Hans-Günther Langeは「アルハンゲリスク」と駆逐艦に魚雷を命中させたと報告したが、これは誤りであり[45]実際は魚雷は早爆していた[46]。
「アルハンゲリスク」は8月29日に北洋艦隊に編入された[47]。「アルハンゲリスク」は第二次世界大戦時のソ連艦艇では最大のものであり[48]、Gordey Levchenko提督の旗艦となり、北極海での船団護衛に従事した[49]。ただしムルマンスク軍港で防潜網に守られた状態で停泊し、ほとんど活動しなかったとする資料もある[50]。一方、ドイツ軍はコラに停泊する「アルハンゲリスク」に対してUボートによる攻撃を幾度か実施、9月と10月にはU315とU313が潜入を試みた[50]。いずれも防雷網の存在のため失敗に終わり、「アルハンゲリスク」は無事だった[45]。続いて特殊潜航艇ビーバー (Biber) による攻撃が計画されたが機械的な問題のため中止となっており、また実行されたとしてもその予定日には「アルハンゲリスク」はコラを離れていた[51]。
第二次世界大戦終結後、ソ連は「貸与」された本艦の返還を渋った[52]。1947年後半に白海で座礁したが、損傷の有無や程度は不明である[53]。
1948年になると、イタリア戦艦ジュリオ・チェザーレ (Giulio Cesare) が戦利艦としてソ連へ引き渡されてノヴォロシースク (Новороссийск) となる[54][55]。その後、アルハンゲリスクは1949年2月4日にようやくイギリスへ返還された[48][12][13]。ソ連は当初「アルハンゲリスク」はイギリスまでの航海に耐えられないと主張して返還をのがれようとした。返還後、ソ連時代の劣悪な整備や衛生状態の悪さがたたり解体が決まった[56][13]。1949年4月5日に売却され[57]、スコットランド、インヴァーキージングの「ソス・W・ウォード社(Thos. W .Ward Ltd.)」の解体場に5月18日に曳航されて解体された[53]。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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