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三斎流
日本の茶道流派 ウィキペディアから
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三斎流(さんさいりゅう)は、豊前小倉藩主細川忠興(三斎、細川藤孝(幽斎)の長男)を流祖と仰ぐ武家茶道の一派。三斎の門人である一尾伊織が許しを得て興したので一尾流(いちおりゅう)、三斎流一尾派などとも言われる。現在家元は島根県出雲市にあり庵号を観翠庵、同門組織として九曜会がある。御家流も一尾流の流れを汲む他、細川三斎流と称する流派がある。
歴史
細川三斎は利休七哲に数えられるほどの達人であり、家中には門人が多くいた。一尾伊織は幕府御書院番を務めた1000石の旗本で、三斎との経緯はよくわかっていない。しかし始めは三斎の家臣の佐藤将監に茶を学び、後に三斎についたとされ、許しを得て一派を興したという。一尾伊織の門人には稲葉正喬、米津田賢、高木正陳、舟橋希賢などがある。
稲葉正喬は駿河守大番頭を務めた7000石の旗本で、この系譜では荒井一掌が松平不昧と親交が深 く、それにより松江に三斎流がもたらされた。松平不昧は家臣にも三斎流を学ばせたが、不昧自身はさらに石州流を学んで松江藩では現在不昧流と呼ばれる系譜が伝えられることになる。一方で三斎流は松江城鬼門にあたる普門院の住職によって受け継がれ、明治維新後は在家に下り、現在は森山家で伝承している。
米津田賢は久喜藩主米津政武の弟にあたり、分家して4000石の旗本である。この門人に当時美濃加納藩6万5000石の城主安藤信友がいて、御家流として現在まで伝えられている。
舟橋希賢は幕臣で、代々一尾流を伝えて明治に至り、この流れが細川三斎流を称している。
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歴代
9代観月庵恵海は松江の普門院住職で、これより僧籍により継承。15代橋本庵梅屋からは在家による継承で、18代観翠庵祥山から森山家で世襲。
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外部リンク
参考文献
- 細川護貞「三斎流と肥後の古風茶湯三家と一尾派」『日本の茶家』河原書店
- 高樋宗其「細川三斎流」『日本の茶家』河原書店
- 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社
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