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万里小路睦子

万里小路建房(権大納言)の六女。徳川斉昭の側室。子に廿麿(1856-1858、二十男、廿麻呂、早世) ウィキペディアから

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万里小路 睦子(までのこうじ ちかこ、天保5年6月15日1834年7月21日[1]) - 大正10年(1921年2月20日)は、江戸時代後期から大正時代の女性。第9代水戸藩徳川斉昭の側室。松平昭訓有栖川宮熾仁親王貞子土浦藩土屋挙直、水戸藩主徳川昭武守山藩松平頼之の母。

父は万里小路建房。初名富姫側室になる際に仁科氏の実子扱いの養女となり、仁科睦子ともいう。と称する。斉昭没後は秋庭と号し、後にこれを戸籍名として水戸徳川家に入籍したため、戸籍氏名は徳川秋庭。また万里小路秋庭とも称される。お印は雀[2]

生涯

権大納言万里小路建房の七女(または六女)として京に生まれる。母は家女房・安藤寿美。同母妹に宮中女官となった万里小路幸子(浜萩典侍)[注釈 1][3]がいる。建房が50歳を超えてからの娘で、家督を継いだ異母兄万里小路正房は32歳上、甥の万里小路博房も10歳年上である。

嘉永元年(1848年)、江戸に下り水戸藩の前藩主・徳川斉昭側室となった[4]」。権大納言の娘をそのまま側室とすることがはばかられたのか、一条家医師仁科周良の実子扱いで養女となり、この頃に「睦子」とを付けられたと考えられる。中臈となり「秋」と称された。側室の中で最も厚遇されたという[4]。同年12月(1849年1月)余四麿(松平昭訓)、嘉永3年(1850年)茂姫(貞子)、嘉永5年(1852年)余七麿(土屋挙直)、嘉永6年(1853年)余八麿(徳川昭武)、安政3年(1856年)廿麿、安政5年(1858年)廿二麿(松平頼之)の5男1女を産んだ。

安政6年(1859年)8月、斉昭が水戸で永蟄居中に死去すると「秋庭」と号し、のち明治時代にこれを戸籍名とした。

明治17年(1884年)6月、前年に水戸徳川家当主を隠居していた昭武とともに、松戸邸(現在の千葉県松戸市にある戸定邸)に移り住んだ。

大正10年(1921年)、満86歳で死去(享年88)。染井霊園松戸徳川家墓地に埋葬された。

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文芸等

訃報記事[5]に「書、歌に秀で、徳川斉昭の歌の編輯」をしたことが伝えられ、歌集としては『面影』『秋庭詠草』がある。

また、歌集、物語の書写物も多く残している。とくに擬古物語の書写本は6本が現存しており[注釈 2]近世女性としては特筆すべき多さである[6]

他には、篳篥の演奏を得意とし、万年青の栽培も趣味とした[2]

また、祖先に後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を持つ[注釈 3]ことから、南朝に強い関心を持っていたらしい。水戸藩の『大日本史』では南朝を正統としており、斉昭も当然ながら南朝びいきであった。川路聖謨奈良奉行の頃、南朝の御所跡に生えていた竹を切って、斉昭に贈ったことがあった。この時睦子は、万里小路家に分けてやりたいので、この竹を少しでも分けてほしいと斉昭に申し出たという[7]

脚注

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