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三浦忠次郎
大日本帝国陸軍軍人 ウィキペディアから
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三浦 忠次郎(みうら ちゅうじろう、1888年(明治21年)4月23日[1] - 1962年(昭和37年)2月16日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
1888年(明治21年)に東京府で生まれた[1]。陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第33期卒業[1]。1935年(昭和10年)に朝鮮軍参謀に就任した[2]。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し[2]、陸軍士官学校附に発令され[2]、1938年(昭和13年)に歩兵第4連隊長に就任した[2]。
1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級[2]、歩兵第130旅団長(第13軍・第116師団)に就任し[1]、日中戦争に出動[1]。安慶に駐屯し[1]、揚子江岸冬季作戦、皖南作戦、皖浙作戦、大別山作戦などの各作戦に参加した[1]。1941年(昭和16年)10月に第4師団司令部附となり[1]、1942年(昭和17年)7月18日に第4師団兵務部長を経て[1]、12月2日に陸軍中将に進級し[2]、第64独立歩兵団長に就任した[1]。1943年(昭和18年)10月1日に第69師団長(第1軍)に親補され[1]、霊宝会戦では本村千代太歩兵第59旅団長が戦死するなど激戦であったが[1]、敵軍を撃砕した[1]。その後第13軍隷下に編入され[1]、終戦時は嘉定にあった[1]。
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脚注
参考文献
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