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三輪坐惠比須神社

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三輪坐惠比須神社(みわにいますえびすじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪に鎮座する神社。旧村社

概要 三輪坐惠比須神社, 所在地 ...

古代海柘榴市(つばいち)の市神を起源とし、926年(延長4年)に現在地へ遷座したと伝わる。の繁栄とともに「市場神社」あるいは「日本最初市場の神」と称され、五穀豊穣・商売繁昌の守護神として信仰されてきた。現在は「三輪の初えびす(六日市)」の祭礼で知られる。

祭神

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三輪惠比須神影(当社蔵)

当社の正式な祭神名は「都美葉八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)」である。「都美葉」は「つみは市」、すなわち海柘榴市の意味で、古代海柘榴市の市神であることを表している。
事代主は大物主(別名大国主)ので、国譲りの談判交渉の際、父の大国主に代わってその役を果たした。「コトシロ」とは「言知る」の意味で、託宣を司る神、言霊の神として崇敬されている。また当社では託宣の神である事代主を、市の取引の正しさと安全を司る守護神として祀ってきたことから、商売繁昌のえびす神として信仰されている。

歴史

要約
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創建

古代、三輪山初瀬川の畔に栄えた日本最初市場「海柘榴市(つばいち)」(現在の奈良県桜井市金屋)の市神として、大行事社(後述)の事代主神を勧請したことに始まると伝わる。海柘榴市が記紀に現れるのは、武烈天皇が即位前に影媛を娶ろうと、待ち合わせ場所となるのが最初である[1]。古来、市には必ず守護神(市神)が祀られ、市神と市は一体のものととらえられており[2]、武烈天皇の在位は6世紀前半頃と考えられているため、当社は遅くともその頃には創建されていたと考えられる。

遷座

社伝によると、926年(延長4年)の初瀬川洪水で海柘榴市がことごとく流され、現在地(桜井市三輪)に市神を遷してして市を立てたのを創祀(遷座)としている。遷座後の「椿市」は、『源氏物語』をはじめ『蜻蛉日記』や『枕草子』など数々の平安文学に描かれ、12世紀になると「三輪の市」として文学に登場するようになる。

神を勧請して市を立てることは、三輪の市から各地に広がっていった。日本の市の初めは三輪の市であるという伝承は、埼玉県の「市場之祭文(武州文書)」(1361年)をはじめ[3]、全国各地の市場町に残る。

えびす神

市神であった事代主がいつ頃えびす神と結びついたのかはよくわかっていない。当社がえびす神として史料に初出するのは、室町時代の三輪山絵図(大神神社所有)である。三輪信仰の宮曼荼羅として描かれた図に、「大行事鳥居(現存せず)」、「圓備須(えびす)」、「地蔵堂(神宮寺)」が描かれている[4]

奈良興福寺多聞院日記に、1571年(元亀2年)正月6日「三輪市場大方焼失」と、初市祭の日に大火があったことが記されている[5]

現在の本殿は、1587年(天正15年)に建てられたことが棟札からわかっている。この棟札には「上棟城上郡三輪市場惠美酒(えびす)宮」と記され、三輪の枕詞「味酒(うまさけ)」から、美酒(うまさけ)を恵む「えびす宮」と表記したものと考えられる。

辻占

多武峰学侶方による『御破裂之覚』には、1607年(慶長12年)に天下異変の予兆とされる多武峰の御破裂山の鳴動に関わって、旧伝にのっとり三輪市で辻占を行ったことが記されている[6]。鳴動は898年(昌泰元年)から計53回の記録があるため、古来から、託宣を司る神、言霊の神、市神として重要視されてきたことがわかる。

福の神

江戸時代後期に出版された『三輪神社略縁起』には、「我国にて大黒神と申は此大国玉尊を云なり。恵美須の神と申も此神の御児、事代主神を申奉る。諸家の幸福神とは此二神を号す。則三輪の初市に祭神なり」と記され、大神神社の大物主(大国主)と当社の事代主の親子神は、えびす大黒の福の神であるとされている[7]

神仏分離

明治神仏分離により、神宮寺であった福楽寺を廃寺とする。鐘楼はそのまま境内に残っているが、本尊の地蔵菩薩像は、三輪の心念寺に移され「虫切地蔵」として親しまれている[8]

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境内

  • 本殿 - 1587年(天正15年)再建。本殿御垣内の瓦には「市場社」と記されている。
  • 拝殿
  • 社務所
  • 参集殿
  • 琴比羅社 - 境内社。祭神:大物主神
  • 鐘楼 - 鐘楼は神宮寺福楽寺以来のもので、初市の神事の合図として使われてきた。鐘は第二次世界大戦中に金属供出し、戦後昭和34年に鋳造して再建された。
  • 石鳥居 - 1902年(明治35年)建立。
  • 手水舎 - 手水盤は、1712年(正徳2年)三輪下市中の寄進によるもの。
  • 社号標 - 1926年(大正15年)、鎮座1000年を記念して建立(揮毫:二條基弘
  • 夫婦 - 樹齢600年余といわれる神木
  • 道しるべ - 「右なら道、左信貴山毘沙門天王道」。慶応2年。社務所前に寝かせて放置されていたものを1979年に境内に立て直したものである。元は、三輪馬場先の三輪の茶屋の辻に立てられていたものと考えられる。ここは奈良へ向かう上街道と三輪から田原本を経て信貴山を結んだ三輪街道の分岐点である[9]

元宮

大行事社(だいぎょうじしゃ北緯34度31分37.2秒 東経135度51分16.4秒

大神神社末社で、大神神社の大物主の子である事代主を祀る。大神神社と大行事社の関係は、出雲における出雲大社美保神社の関係にあたる。「行事(ぎょうじ)」とは、古代神社祭祀の役職や儀式を意味し、大行事神(だいぎょうじのかみ)とは市の祭祀を司り、神事に深く関わる神を指している。創建年代は不明であるが、古代海柘榴市は大行事社の事代主を市神として市を立てたとされる。926年(延長4年)の遷座にあたっても同様であるため、三輪坐惠比須神社の元宮とされ、2月6日の初市祭では大行事社にも神饌が供えられる[10]

祭事

  • 2月6日(2月5日 - 2月7日): 三輪の初えびす(六日市)
(5日:宵宮祭〈宵えびす〉鯛引き行列、6日:初市大祭〈本えびす〉、7日:後宴祭〈残り福〉)
  • 4月14日:春の大祭
  • 6月30日:大祓神事
  • 7月9日:琴比羅神社(境内社)例祭
  • 8月13日:夜市祭 千本ローソク 祈祷
  • 10月14日:秋の大祭(例祭)
  • 11月第2日曜:講社祭
  • 12月31日:大祓神事
毎月祭事
  • 1日:月次祭

初えびす(六日市)

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初市祭

三輪の初えびすは2月(月遅れの1月)5日~7日に行われ、「六日市」と呼び慣わされる。

三輪は日本最初市場である海柘榴市の名残を伝えるとともに、推古天皇の時代に初めて六斎市が立てられた地であると称され[11]、他の多くのえびす神社が「十日えびす」であるのに対し、旧暦の時代にはそれに先立って行われていた。

託宣の神であり市神である三輪惠比須の神託により出されたその年の諸物価の初相場は、「三輪の初市相場」といわれて全国の相場に影響を与えた。江戸時代中期には諸国の代表的な商人数百人が詰めかけ、神託による初相場を報告するとともに、版木で刷って全国に配布していたと言われる[11]

1940年(昭和15年)からは、大阪市内の崇敬者が三尺の生鯛と大鏡餅を竹籠に乗せて神社に練り込む行事が行われていた[11]

現在は、以下の神事・神賑が行われている。

宵えびす(2月5日)

  • 鯛引き行列 - 重さ約80kg・全長約2mの一刀彫の大鯛、奉納生鯛、福俵の山車がお囃子とともに三輪の町を練り歩く。
  • 初市相場奉告祭 - 三輪素麺相場を占い、それを報告する神事。

本えびす(2月6日)

  • 初市大祭 - 新しい年の市場守護を祈る儀式。商売繁昌を願う意味も込められている。

残り福(2月7日)

  • 湯立て神楽 - 御湯(みゆ)の神事。八つの大釜に湯を煮えたぎらせ、巫女が釜に米、塩、神酒を入れて笹の葉に浸し、参列者に降りかける。湯しぶきを受けると無病息災、商売繁昌の御利益があるとされる。
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文学

現在地に遷座した926年以後の椿市、三輪市に関する文学

  • 藤原道綱母蜻蛉日記』(968・971年) - 長谷詣の行き帰りに椿市で宿泊したことを記録している。
  • 藤原実資小右記』(990年) - 長谷詣のために椿市で燈明・燈心を買い調えたことを記録している。
  • 清少納言枕草子』(1001年) - 「市は、つば市。大和にあまたある中に、長谷に詣づる人のかならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり。」
  • 紫式部『源氏物語』「玉鬘」(1008年) - 生き別れになった右近と玉鬘が、長谷詣のために椿市で宿を取り、偶然に再会する。
  • 寂蓮法師(1139-1202年) - 「大和なる三輪の市路に急ぎてもいつまで世にはふるの山ごえ」
  • 藤原隆信(1142-1205年) - 「尋ねばやほのかに三輪の市に出でて命に替ふるしるしありやと」
  • 藤原家隆(1158-1237年) - 「ききわかむ里すみてなけ時鳥すぎゆく三輪の市とよむなり」
  • 佐藤春夫(1963年) - 「海柘榴市の野道に飛び交ふ蟲や何」(境内に石碑あり)
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交通

脚注

関連項目

外部リンク

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