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中根貞彦
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中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日[1] - 1964年(昭和39年)1月24日[2])は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯[1]。

経歴
大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男[3]。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる[4][5]。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した[6]。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した[2][4][7]。
日本銀行に入行する[2][4][5]。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任[2][4][5]。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した[4][5]。その際、新任頭取選びを一任された土方久徴が、総裁候補だった理事の中根を充てた[8]。その他、大阪手形交換所委員長、三和信託社長、全国金融統制会評議員、日本銀行参与なども務めた[2][3]。
1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ[9]、財閥解体を担当する持株会社整理委員会委員長に内定したが[4][5]、戦時中に出版した歌集『膺懲』により公職追放となり[5]、同年6月28日に貴族院議員を辞職した[10]。
1951年(昭和26年)に追放解除となり、以後、三和銀行相談役、ダイハツ工業監査役、房総油脂工業会長、髙島屋顧問、関西大分県人会長などを務めた[4]。
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人物
親族
著作
- 『翠菊 : 北海道周遊吟 : 彦手記』中根貞彦、1939年。
- 『消えゆくともし火』中根貞彦、1939年。
- 『膺懲 : 歌集』全国書房、1942年。
- 『中根貞彦歌集』三和銀行、1986年。
- 訳書
- 『唐詩歌訳』中央公論社、1963年。
脚注
参考文献
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