トップQs
タイムライン
チャット
視点

中立労働組合連絡会議

かつて存在した、日本社会党支持ながらも同党支持の総評&新産別の右側の立ち位置であることを名乗ったナショナルセンター ウィキペディアから

Remove ads

中立労働組合連絡会議(ちゅうりつろうどうくみあいれんらくかいぎ)は、かつて存在した日本労働組合ナショナルセンター。略称は中立労連。左派労組の総評新産別、右派労組の同盟どちらにも属さない中道労組として存在、1979年3月には新産別と全国労働組合総連合(総連合)を組織し、総評と同盟の間にたって、全日本民間労働組合協議会(全民労協)の結成を推進した。1987年11月、全民労協が全日本民間労働組合連合会に改組されることにより、労働戦線統一が進んだとして中立労連は解散した。さらに全日本民間労働組合連合会は1987年に総評と合流し、1989年に労働4団体(総評・同盟・新産別・中立労連)の統合 した日本労働組合総連合会(連合)となった。総評内の共産主義排除に反発した者らは全労連として分離した[1][2][3]

概要 略称, 設立年月日 ...
Remove ads

沿革

発足

1956年(昭和31年)、第27回メーデーにおいて日本労働組合総評議会(総評)と全日本労働組合会議(全労会議)のどちらのナショナルセンターにも与しない中立労組がメーデー常任実行委員会に影響力を行使するため、3月22日全国中立労働組合懇談会を結成した。そして9月8日の第5回懇談会で改組し、13組合、75万人の組合員で中立労働組合連絡会議として発足した。[4]

ナショナルセンターへ

1970年(昭和45年)10月、中立労連拡大全体会議で運動方針に準ずる「活動目標」が設定。1974年(昭和49年)には定期大会制度が採用され、中立労組の協議会からナショナルセンターとしての役割へ移行した。

解散

1979年(昭和54年)3月、全国産業別労働組合連合(新産別)と全国労働組合総連合(総連合、現在の全労連とはちがう)を組織し、その後1982年(昭和57年)12月に結成した全日本民間労働組合協議会(全民労協)を支え、労使協調路線からの労働戦線の統一に努力した。

1987年(昭和62年)9月29日、赤坂東急ホテル(東京)で第14回定期大会を開催し、「労働戦線の統一」が果たされたとして解散を決定した。大会決定通り、全民労協が全日本民間労働組合連合会に改組される前日の11月19日に解散した。このさい、中立労連の残存任務を処理し、当分の間、旧加盟組合の暫定的な連絡機関とするため、10月28日に「中立労組連絡会」(中連)を設置することになった[5]

Remove ads

加盟労働組合

解散を決定した第14回定期大会(1987年9月29日)直前の加盟単産を以下に示す[6]

脱退した加盟労働組合

  • 日本国有鉄道機関車労働組合(機労、のちに動労、現在のJR総連)(1960年に総評に転じる)
  • 全国鉄施設労働組合(全施労)[7](のちに、日鉄労、鉄道労連を経て、JR総連の系譜に繋がる。)
  • 全国炭鉱職員労働組合協議会(炭職協)[7]
  • 鉄道弘済会労働組合(鉄弘労) - 1972年に総評に加盟した[7]
  • 車輛産業労働組合連合会(車輛労連) - 主要単組の脱退が相次いだため、1972年8月29日の臨時大会で解散し、脱退した[8][7]
  • 全日本造船機械労働組合(全造船機械) - 1974年3月、中立労連を脱退し、総評に加盟した[9]
  • 全日本ホテル労働組合連合会(ホテル労連) - 1974年10月、中立労連を脱退し、11月1日、総評に加盟した[10]。現在のサービス連合
  • 日本交通公社労働組合(交通公社労組) - 1976年8月24日~26日の定期大会で観光・航空貨物産業労働組合連合会(観光労連)[11]に結集することを理由に、同年9月1日で中立労連を脱退した[12]
Remove ads

脚注

関連項目

Loading content...
Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads