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中臣習宜阿曾麻呂

奈良時代の貴族 ウィキペディアから

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中臣習宜 阿曾麻呂(なかとみのすげ の あそまろ)は、奈良時代貴族。氏は単に習宜とも記される。朝臣官位従五位下大隅守

概要 凡例中臣習宜 阿曾麻呂, 時代 ...

出自

中臣習宜氏は物部氏の一族で、饒速日命の孫にあたる味饒田命の後裔とする天孫氏族[1]。習宜の名は大和国添上郡習宜の地名に由来する[2]。元は姓であったが、養老3年(719年)に朝臣姓に改姓している[3]

経歴

天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、翌神護景雲元年(767年)に、宇佐神宮の神職団の紛争調停のために豊前介に任ぜられた[4]神護景雲3年(769年)9月大宰主神を務めていた際、宇佐八幡宮神託であるとして、道鏡皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇上奏するが[5]和気清麻呂によって道鏡の皇嗣擁立を阻止される(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲4年(770年)に称徳天皇の崩御を通じて道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守左遷された。宝亀3年(772年)4月に道鏡が没すると、6月に阿曾麻呂はかつて和気清麻呂が神託事件により流された大隅国国司に任ぜられた。

官歴

続日本紀』による。

脚注

参考文献

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