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中野逍遙

日本の詩人 ウィキペディアから

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中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日1867年3月16日) - 明治27年(1894年11月16日)は日本の漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など

略歴

1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した[1][2]。同級生に夏目漱石正岡子規がいた[1][2]。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した[1]。享年28歳[2]。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された[1]。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた[2]

逍遙の漢詩は自身の恋を題材にした点が特徴であり[1]、制約の多い漢詩に恋愛感情を自由奔放に歌いこむ詩風は、島崎藤村吉井勇らにも影響を与えている。また、漢詩や未完小説『慈涙余滴』には李白杜甫の影響が見られる[3]

宇和島市の和霊公園に、下記の詩の碑がある[2]。なお忌日は川崎宏によって「山茶花忌」と命名された[要出典]

道情
擲我百年命  我が百年の命を擲ち
換君一片情  君が一片の情に換へん
仙階人不見  仙階人見えず
唯聴玉琴声  唯だ玉琴の声を聴く
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脚注

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