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丸川武志
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丸川 武志(まるかわ たけし、1925年〈大正14年〉6月18日 - 2007年〈平成19年〉2月19日[1])は、日本の電気工学者であり、教育者である。逓信省で電波研究を行った後、防衛大学校の教授を務めた。退官後、防衛大学校名誉教授となる[2]。岡山県出身。位階は従四位、勲三等瑞宝章に叙されている。
経歴
要約
視点
生い立ち
1925年(大正14年)岡山県に出生する[3]。1938年(昭和13年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し[4]、1943年(昭和18年)同校を卒業を経て、茨城県にある日立製作所が設立した多賀高等工業学校(現:茨城大学工学部)へ進学する[5]。
同校では、電気通信学を専攻し、多賀高等工業学校が途中で多賀工業専門学校と名称を変更し、電気通信科が新設され、丸川はそこに所属する。1947年(昭和22年)3月、同校を卒業する[5]。
研究者として
逓信官僚から防大の教授になるまで
学校を卒業後、逓信省電波局観測課に入省し、ここで電波研究をおこなっていた。その後、防衛大学校が開設されると、1955年(昭和30年)11月、丸川は、防衛大学校電気工学教室に助手として着任し、海上を伝搬するパルスレーダの送受信の研究を行う[6]。1963年(昭和38年)1月に講師となり、防大理工学研究科のマイクロ波系列担当となる。1965年(昭和40年)4月、39歳で助教授となり、1977年(昭和52年)4月、51歳で丸川は教授へ就任する。この間、丸川が防大で担当した講義科目は、電子応用、電子理論、電気工学通論、電気工学概論、電波法規、電気工学実験等の多岐に渡った。1985年(昭和60年)には、防大に宇宙通信工学研究科が創設され、丸川はその担当となり、この後、研究科1期生より28期生まで本科同様教育と研究指導している[5]。
研究内容
丸川は、逓信省時代より一貫して電波による計測・観測に関する研究に従事しており、主にレーダによる計測に重点をおいていた。
防大へ着任後、まず、船舶用レーダの跳ね返り(エコー)を評価する上で基本となる海面反射の問題を解明している。加えて、船舶用レーダを用いて自船の速度を計測する一方法を新たに編み出した。さらに、当時、日本国内の新規研究分野である、周波数変調連続波レーダー研究に着手し測距精度、距離測定能力の性能改善に、新しい信号処理法を次々と提案し、レーダによる距離と速度の高精度測定法を完成させている。この成果により、大阪大学から1975年(昭和50年)3月、工学博士の学位を授与されている[5]。
その後もレーダと反射器を用いた高精度測距法、複合変調を用いた周波数変調連続波レーダ等に関する研究を精力的に行い、日本の防衛力向上に大きな成果を挙げている[5]。
丸川の人柄について
丸川の研究室は、学生の人気が高く、200名に上る多数の卒研学生を指導してきた。これは、丸川の誠実で温厚な人柄によるものが大きく、研究室の雰囲気も学生の間では人気があった。防衛大学内では、電気工学教室主任、評議委員、補導審議会委員の外多くの要職を歴任し、防衛大学校の教育・研究環境の整備のために尽くした。また、校友会活動にも深く関わりを持ち、1967年から22年間にわたり、少林寺拳法部の部長として活躍した。丸川自ら、合宿を含む年間行事に積極的に参加して部員の指導に当たり、これにより、防大少林寺拳法部は、連続で全国優勝を果たした[5]。
1991年(平成3年)3月、丸川は65歳で防大教授を定年退職する[7]。その後、長年の貢献が認められて、防衛大学校の名誉教授となり、1995年(平成7年)11月3日、70歳で国より勲三等瑞宝章を授与されている[2]。2007年(平成19年)2月19日、81歳で死去。死没日付をもって従四位に叙された[1]。
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脚注
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