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伊藤清兵衛

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伊藤 清兵衛(いとう せいべえ、天保2年〈1831年〉 - 慶応元年10月23日1865年12月10日[1])は、幕末筑前福岡藩士である。通称は初め平次郎、のち清兵衛。諱は勝益。字は黙通。福岡藩士・島平右衛門周成の四男。母は月成氏

経歴・人物

那珂郡柳原村に生まれ、同藩士・伊藤森之助常世の養子となる。幼少より月形深蔵魚住三郎らに就いて学ぶ。 

安政4年(1857年)9月家督を相続した。家禄二百石を拝領し、馬廻組に列せられる。万延元年(1860年足軽頭に任ぜられ長崎に勤番したが、病により辞職。元治元年(1864年)10月藩より京都警護の命を受けて上京した。

次いで幕命を受けて敦賀へ赴き、武田耕雲斎一行(天狗党)の囚獄を警護した。慶応元年(1865年)5月佐幕派の台頭に抵抗して、薩摩藩の志士と謀って尊皇派の同志を救出しようとしたが果さず、同年8月禁固を命ぜられ、10月枡木屋の獄において斬罪に処せられた。刑死後は徳永寺に葬られ、明治35年(1902年)贈正五位に叙せられた[2]

脚注

参考文献

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