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佐々木忠次郎
日本の昆虫学者 ウィキペディアから
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佐々木 忠次郎(ささき ちゅうじろう、1857年9月27日(安政4年8月10日)- 1938年(昭和13年)5月26日)は、明治・大正・昭和期の昆虫学者。近代養蚕学・製糸学の開拓者。
経歴
福井藩士の子として福井で生まれ、1871年に父の工部省勧工寮出仕にともない、14歳で上京し、東京大学理学部に入学[1]。 東大在学中、エドワード・S・モースやチャールズ・オーティス・ホイットマンの指導を受けた。
- 1877年9月16日、モースの生徒として、松村任三、松浦佐用彦とともに大森貝塚の発掘調査を行った。
- 1879年には日本人だけによる最初の発掘調査として、後輩の飯島魁とともに陸平貝塚の調査を行っている。
- 1881年、東京大学理科大学生物学科第1回生として卒業。1889年から2年間ドイツへ留学し、ミュンヘン大学で学ぶ[2][1]。留学中も常に羽織に仙台平の袴という服装で外出し、ミュンヘンの名物になったという[3]。帰国後帝国大学農科大学助教授となり、1893年に動物学・昆虫学・養蚕学の第二講座の初代教授となった[1]。
- 1921年退官、名誉教授となる。
- 1922年4月7日、帝国学士院会員となる[4]。
害虫研究や蚕研究を行い、多くの著書と論文を発表し、没後その功績を称え旭日重光章が贈られた。また国蝶のオオムラサキの属名「ササキヤ(Sasakia)」は彼に対する献名である。
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家族
父佐々木長淳(権六、1830-1916)も養蚕学の研究者である[5]。長淳は福井藩士・佐々木小左衛門長恭の長男に生まれ、幕末の福井藩で主に技術官僚として軍事・軍制改革に携わり、武器購入のために米国へも渡航し、維新後は新政府の農政実務官僚として養蚕・製糸・紡績等の分野で大きな功績を残した[1]。
栄典
- 位階
- 1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[6]
- 1901年(明治34年)8月31日 - 正五位[7]
- 1906年(明治39年)10月20日 - 従四位[8]
- 1911年(明治44年)12月11日 - 正四位[9]
- 1917年(大正6年)1月10日 - 従三位[10]
- 勲章等
脚注
論文
外部リンク
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