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佐々木惣一

日本の法学者 ウィキペディアから

佐々木惣一
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佐々木 惣一(ささき そういち、1878年明治11年〉3月28日 - 1965年昭和40年〉8月4日[1])は、日本法学者。専門は憲法学行政法。学位は法学博士貴族院勅選議員。京都大学名誉教授立命館大学学長。京都市名誉市民[2][3]文化功労者文化勲章受章者。贈正三位、贈勲一等瑞宝章(没時追贈)。

概要 人物情報, 生誕 ...
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佐々木惣一

経歴

要約
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生い立ち

佐々木惣三郎の長男として[4]現在の鳥取県鳥取市西町に生まれる[3][5][6]

1895年(明治28年)、旧制鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。現存している一年級と三年級の成績は、前者が次席、後者が首席である[7]

同年9月、旧制第四高等学校入学。一般家庭出身で学資に困っていた佐々木は、旧鳥取藩池田家の奨学金や鳥取時代の友人からの援助を受けて高校に通った[8]。学生時代にはボート部に属し、野村淳治(後に東大公法学教授)や阿部信行(内閣総理大臣)と交流し、また子規派俳句結社「北声会」に参加した[9]。なお、憲法学者の上杉慎吉は四高法科の一年上級、商法学者の烏賀陽然良(京大法教授)は同級である[10]

1899年(明治32年)、新設された京都帝国大学法科大学に第一期生として入学する。当初は独法科を志して東京帝国大学に進む予定であったが、病気療養の事情や親戚の勧めから京都帝大に進学する[11]。学費や病気の両親の治療費のために苦学し、塾講師などアルバイトに励んだ[11]

1903年(明治36年)、卒業論文[12]「官吏ノ不法行為ニ因ル国家ノ責任ヲ論ス」を提出し、京都帝国大学法科大学卒業。

憲法学者として

直ちに同大学の講師、次いで1906年(明治39年)に助教授、1913年(大正2年)に教授となり、行政法を講じた[5]。さらに1927年(昭和2年)からは退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになった。行政法における師匠は織田萬であり[13]、憲法における師匠は井上密である[14]。1921年(大正10年)以来2度、法学部長に挙げられる[4]

厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、弟子の大石義雄とともに憲法学における京都学派を築いた[15]1916年(大正5年)元旦から大阪朝日新聞の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表[16]。1933年(昭和8年)滝川事件に抗議して辞職[15]。同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動するなど、大学自治の擁護に努めた[15]

1945年(昭和20年)には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる「佐々木憲法草案」を作成している[5]。その後は、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対した[17]

1951年(昭和26年)、朝日新聞に「自衛軍事行動と憲法」を発表し、自衛戦力合憲論(合憲論)を提示した。翌1952年(昭和27年)には国会に日本国憲法9条解釈に関する意見書を提出し、合憲論を主張した。

年譜

  • 1878年(明治11年)- 3月28日 生誕
  • 1903年(明治36年)- 7月 京都帝国大学法科大学卒業、同講師
  • 1906年(明治39年)- 10月 京都帝国大学法科大学助教授
  • 1909年(明治42年)- 9月 ドイツフランスイギリス行政法研究のため3年間留学
  • 1913年(大正2年)
    • 1月 京都帝国大学法科大学教授
    • 12月 法学博士
  • 1921年(大正10年)- 4月 京都帝国大学法学部長
  • 1934年(昭和9年)- 3月 立命館大学学長
  • 1939年(昭和14年)- 12月 帝国学士院会員
  • 1945年(昭和20年)
    • 10月13日 - 内大臣府御用掛[18]
    • 10月 京都帝国大学名誉教授
    • 11月 内大臣府御用掛として憲法改正調査を拝命しいわゆる「佐々木草案」を作成
  • 1946年(昭和21年)- 3月 貴族院勅選議員に勅任(12日[19]無所属倶楽部所属、1947年5月2日まで在任[1]
  • 1951年(昭和26年)- 「自衛軍事行動と憲法」発表
  • 1965年(昭和40年)- 8月4日 死去。同年8月21日には京都市公葬が営まれた[20]
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顕彰・栄典・追贈

研究内容、思想、業績

要約
視点

オールド・リベラリスト(戦前自由主義者)の一人で、自由主義者、自由保守主義者とされる[22]

立憲主義の擁護

1916年、政党政治への不信が強まっていた時代に、論文「立憲非立憲」を発表し、「門地や職業に依て限られた範囲の国民」を「上級国民」と名付け[23]、上級国民の意思による政治は立憲主義でなく、一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれるのだと、立憲主義の価値を説いた[24]

之を西洋の制限君主制度の発達に徴するに、政治に参加せしめらるるの国民の範囲は、始めは狭かった。即ち門地や職業に依て限られて居た。後それが発達して遂に、一般の国民の参加を認むるに至ったのである。門地や職業に依て限られた範囲の国民――仮に之を上級国民と云うて置こう――が、その意思を政治に参加せしむることも制限君主主義であるが、而(しかれど)も立憲主義ではない。一般の国民が其の意志を政治に参加せしむるに於いて始めて立憲主義を生ずるのである。佐々木惣一『立憲非立憲』弘文堂書房、1918年

1940年、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けた。佐々木は中央公論1940年10月号寄稿論文「新政治体制の日本的軌道」において、日華事変の長期化を理由とした新体制運動の議会否定の思想を批判、ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的である、と主張した[25]

憲法に関して

  • 立憲主義
  • 無限界説 - 憲法改正の範囲に限界はない(基本原理であっても改正可能である)と主張した。この考えに従うと、日本国憲法の成立過程において大日本帝国憲法に則った改正手続きをとりつつ大日本帝国憲法の基本原理を書き換えた(天皇主権国民主権への改正など)ことを容易に説明することが可能である。ただし、学界では少数派であり、現在は憲法改正の範囲には限界があるとする学説が圧倒的に優勢である。
  • 自衛戦力合憲論(合憲論) - 自衛戦力の保持は憲法9条に反しないと主張し、後の警察予備隊自衛隊合憲論に発展。[26]
  • 押し付け憲法論

学問の自由の擁護

佐々木惣一の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではない。その学者としての態度は1922年(大正11年)、彼が鳥取中学校『創立五十年』に送った文章の中にも見られる(表記は新字体と現代仮名遣いに改めた)。

我々は中学時代から久しく何でも偉くなろうと志した。しかし偉いとはどんなのかということについては今日ようやく気がつくようになったのである。…シルクハットをかぶり、大礼服を着、金持となり、華族となることが出来るようになればなるほど、それだけ正しい人となることが出来なくなるのだと思うことすらある。今の私にとっては正しい人が最も偉い人なのである。『鳥取県郷土が誇る人物誌』263頁

一個人として

趣味は読書と俳句。信仰は仏教[4]

語録

要約
視点
父母への手紙

第四高等学校に入学し、金沢から郷里・鳥取の両親に送った佐々木自筆の書翰から要点を適載する。手紙はまず両親が家道困窮のうちに、高等学校へ進学させてくれたことを感謝し、(以下原文のまま)

…三年の此學校を卒業致し候はば假令ひ大學校に入ること出來申さずとも、月に二十五六圓の月給を取つて御一同樣を養ひ申し、今日までのより深き御恩に報じ、山よりも高き不孝のつみを御わび申上ぐべく候。後をたのしみとして決して御病氣などにかからせられざる樣御大切になし下されたく候。(中略)先日はまことに相すみ不申候義とは存じ候へ共、こまり候まま御無理御願ひ申上候ところ、早速御送金を辱ふし有御禮申上候。さぞ困遊ばされた御ことと奉恐縮候。
殊に親せき一どうへも御しんがいのこと此上なく中學卒業以來一文も金もうけせずしてただ種々の御しんぱいを相かけ申候ことのみ、是も全く後の事をおもひ候故にて今九圓の月給を取る時はいま一時は合よく相見え候へども、十年後になりて家族などもふえ來るときはまたまた大なんぎして御一同樣をなぐさめ申上ぐること出來不申、從つていつも中以下のくらしをせねばならぬことと考え候故に御坐候閒不孝の罪不惡御免被下度候。
(中略)母上樣にはやはりザイへ玉子買に御出あそばされるや。ああ六十有餘の父上[27]には遠きみちを魚町までかよはせられ、かねて病身の母上樣には、この寒さにも拘らず、ざいへ出られ其留守をさびしく八十に餘り玉へる御老母樣がひとりまもり遊バされ候。何とぞ御大切に御保養う平に(中略、この間、金沢の風物、、芝居、四高の内容、在金沢の鳥取県人の動静に加えて、旅先で大水害に遭い困難を極めた顛末などを詳述している)、以上記したはただありの侭に候へ共御笑覽被下度候。非常に困せし如く見え候へ共、二人ともすこしもさわりなく、あんおんにつく爲め、日數と金錢をおしまず、一向にあやうきに近よらずして着仕候閒すこしもそのがいをうけ不申候閒御安心被下度候。
十月十二日夜八時認め終る
惣一拜
御一同樣『鳥取県百傑伝』228–229頁
立憲非立憲

佐々木は『立憲非立憲』の中で、「違憲と非立憲」について以下のような考えを述べている(表記は新字体と現代仮名遣いに改めた)。

政治はもとより憲法に違反してはならぬ。しかも憲法に違反しないのみをもって、直ちに立憲だとはいえない。違憲ではないけれどもしかも非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実にこの点を注意せねばならぬ。違憲とは憲法に違反することをいうに過ぎないが、非立憲とは立憲主義の精神に違反することをいう。違憲はもとより非立憲であるが、しかしながら、違憲ではなくとも非立憲であるという場合があり得るのである。れば、いやしくも政治家たる者は、違憲と非立憲との区別を心得て、その行動のただに違憲たらざるのみならず、非立憲ならざるようにせねばならぬ。彼の違憲だ、違憲ではないというの点のみをもって、攻撃し、弁護するがごときは、低級政治家の態度である。佐々木惣一『立憲非立憲』弘文堂書房、1918年[28]

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主な著書

出典・注釈

伝記研究

参考文献

関連項目

外部リンク

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