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佐竹義隆
江戸時代前期の大名。出羽国久保田藩の第2代藩主。従四位下・侍従、左近衛少将。佐竹氏第20代当主。 ウィキペディアから
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佐竹 義隆(さたけ よしたか)は、江戸時代前期の大名。出羽国久保田藩の第2代藩主。官位は従四位下・侍従、左近衛少将。佐竹氏第20代当主。
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生涯
慶長4年(1609年)、佐竹義重の三男・岩城貞隆の長男として誕生。
元和6年(1620年)、貞隆の死去により家督を相続し、遺領である信濃国中村1万石を継いだ[3]。この時は岩城吉隆と名乗っている。元和8年(1622年)、出羽由利郡内で1万石の加増を受けた。元和9年(1623年)11月、中村の領地を収公、由利郡に替地を与えられた[4]。それに伴い由利郡亀田村に陣屋を移転した。寛永元年(1624年)12月29日、従五位下・修理大夫に叙任した。
寛永3年(1626年)4月2日、佐竹氏宗家の家督を継ぐ予定であった叔父・佐竹義直が廃嫡されたため、伯父で出羽久保田藩主・佐竹義宣の養子となり佐竹義隆と名乗る[5][6]。同年4月27日徳川秀忠・家光父子に御目見した。同年8月29日、従四位下・侍従に昇進する。寛永4年(1627年)9月16日、秀忠に招かれ鍋島勝茂・京極高広・藤堂高次らと共に、江戸城西ノ丸にて口切の茶会に参加した[7]。
寛永7年(1630年)11月、幕府からなかなか隠居を許可されない養父・義宣は、義隆に対して部屋住料5万石を与えようとするものの、従来のままで構わないとして辞退する。寛永10年(1633年)2月26日、義宣の死去により家督を相続する[8]。同年5月8日、藩主として初めて帰国の許可を得る[9]。寛文6年(1666年)12月28日、左近衛少将に昇進する。
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系譜
偏諱を受けた人物
義隆時代
脚注
出典
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