トップQs
タイムライン
チャット
視点

儀我誠也

ウィキペディアから

Remove ads

儀我 誠也(ぎが せいや、1888年明治21年〉11月11日 - 1938年昭和13年〉1月24日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

概要 儀我 誠也, 生誕 ...

経歴

東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。

1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。1925年(大正14年)5月、歩兵少佐に昇進。張作霖爆殺事件の際、張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していた中で爆発を体験している[1]

1929年(昭和4年)1月、歩兵第11連隊付となり、同年8月、歩兵中佐に進級。1930年(昭和5年)12月、第二高等学校配属将校に就任。1933年(昭和8年)5月、関東軍司令部付(山海関特務機関長)となり、1934年(昭和9年)3月、歩兵大佐に昇進。1935年(昭和10年)8月、歩兵第30連隊長に就任。

1937年(昭和12年)8月、支那駐屯軍司令部付となり、同月、北支那方面軍司令部付(天津特務機関長)に転じ、情報収集活動に従事したが、翌年1月、天津で戦病死し陸軍少将に昇進した。

Remove ads

栄典

親族

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads