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元寇防塁
鎌倉時代に元寇に備えて博多湾沿岸に築かれた防塁 ウィキペディアから
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元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による、蒙古襲来(元寇)に備えて築かれた防塁。弘安の役の際には防塁が築かれたところからは元高麗軍は一切上陸することが出来なかった[1]。1931年(昭和6年)に国の史跡に指定[2][3]。
「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、
計画
文永11年(1274年)に元による侵攻(文永の役)を受けた鎌倉幕府は本格的な異国警固に着手し、翌建治2年(1276年)3月に異国征伐として高麗出兵を計画し、平行して石築地を築造させ、元による再襲来に備えた。
築造
築造は国ごとに区域を定め、大隅国の石築地賦役文書に拠れば、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課されたという。弘安4年(1281年)の弘安の役までには一部が完成しており、元軍は博多への上陸を断念して、志賀島に船団を停泊させたという。弘安の役の後も元による再襲来に備えて異国警護体制は持続し、工事や破損箇所の修復が負荷された。工事は鎌倉幕府滅亡の前年にあたる元弘2年(1332年)まで行われている。九州の御家人竹崎季長の描かせた『蒙古襲来絵詞』には、建築当時の姿が描かれている。

構造
高さ・幅は平均して2メートルある。総延長は、西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎までの約20キロメートルに及ぶというのが定説になっている。内部には小石を詰め、陸側に傾斜を持たせて海側を切り立たせている。築造を担当した国により、構造に違いがある。
現存する元寇防塁
要約
視点
防塁は弘安の役以降も数十年間にわたり維持・修理されていたが、のちに管理されなくなり砂に埋もれていった。江戸時代の福岡城築城の際に、石垣の石として防塁の大半が失われたと考えられている。
1913年(大正2年)に中山平次郎が『福岡日日新聞』に「元寇防塁の価値」という論説を発表する。「元寇防塁」という呼称はこのときに中山が独自につけたものであるが、これ以降、この呼称が定着していくことになる。
防塁が一部現存する以下の場所は1931年(昭和6年)3月30日に国の史跡に指定された(1981年(昭和56年)3月16日に一部追加指定。博多地区は未指定)。一部の場所では、石塁が露出した状態で見学できるようになっている。
なお、現在は埋め立てなどにより鎌倉時代当時よりも海岸線が沖へ延びているため、海岸から遠く離れた内陸部に位置する元寇防塁跡もある。
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長崎県内に存在する防塁
平戸市田平町から松浦市星鹿町の海岸線40-50キロメートルにかけて、防塁が古代のまま現存している。開発の進んでいないこの地域には元寇に関連する遺跡も多数あり、また、それに関連すると思われる「火立場」「血田」「追い出し」などの地名や、昔からの言い伝えもあるが、発掘等の詳しい調査はなされていない。
出典
文献
関連項目
外部リンク
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