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薩摩国

遠国に属する令制国の一つ ウィキペディアから

薩摩国
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薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。律令制成立当初は西海道日向国に属していたが、後に唱更国として分立[1][2]。現在の鹿児島県本土の西部にあたる。

概要 薩摩国, 別称 ...

沿革

要約
視点

古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見える[3]

古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[4]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[4]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[4]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[5]

5世紀仁徳天皇の御代には隼人の長を改めてとしたとされる(『国造本紀』)。

7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[6]

大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に[7]、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと[8]/はやと[9]/しょうこう[10])に分立したのが、薩摩国の始まりである[6]。(日向国から分離して設置される以前は、この地域は阿多(吾田) と呼ばれていた。)

唱更の更は、中国の代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいうといった[11]推察があるが、続日本紀に「和銅六年八月己未(713年8月)日向国を分ちて薩摩国を置く。国号を唱更す。」とあるように「国号を改めて申し出る」という意である[注釈 1]

国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた[12]8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。

7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。

近世以降の沿革

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国内の施設

国府

国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。

現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺

薩摩国分寺
薩摩川内市国分寺町

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す小社2座2社が記載されている(「薩摩国の式内社一覧」参照)。大社はない。
総社一宮
  • 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
  • 一宮 新田神社 (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。

二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。

安国寺利生塔

  • 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町
  • 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
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地域

領域

明治維新直前の領域は、現在の鹿児島県の下記の区域に相当する。現住人口の過半数が鹿児島市に集中している。

なお、現在の出水郡長島町(長島伊唐島諸浦島獅子島)は室町時代後期まで肥後国天草郡に属していたが、1565年永禄8年)から1581年天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。

高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。

江戸時代の藩

人物

国司

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

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薩摩国の合戦

さらに見る 年, 合戦 ...

脚注

参考文献

関連項目

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