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前田利同

日本の江戸時代後期~大正時代の大名・伯爵・外務省及び宮内省官僚。加賀藩12代藩主前田斉泰の子で、越中富山藩12代藩主前田利聲養子。富山藩13代(最後)の藩主。従四位下淡路守 ウィキペディアから

前田利同
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前田 利同(まえだ としあつ)は、江戸末期大名明治から大正期の日本官僚華族位階勲等爵位正二位勲四等伯爵

概要 生年月日, 没年月日 ...

越中富山藩第13代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事宮内省侍従・式部官・宮中顧問官、外務省公使館書記官などを歴任[1][2]

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生涯

安政3年(1856年)6月27日、加賀藩主・前田斉泰の十一男として江戸で生まれる。富山藩では第12代藩主・前田利聲隠居していた父の利保が改革をめぐって対立していたが、その争いは利保に斉泰が味方したことで利保の勝利に終わり、利聲は富山藩の藩主の座を追われて強制隠居処分となった。代わって斉泰の息子である利同が安政6年(1859年)11月22日に富山藩主となった。しかし幼少のため、実権は実父の斉泰が掌握し、富山藩は本家である加賀藩の影響下に置かれ、加賀藩から津田正行らが派遣されて藩政を監督された。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で富山藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官される。その後、東京へ移った。明治4年(1871年)10月、明治政府からフランス留学を許可される。最初はフランス・パリ、次いでイギリス・ロンドンへ留学した。明治6年(1873年)12月、帰国した。

明治15年(1882年)4月、フランス公使館書記生から外務省御用掛となる。その後、宮内省の式部官となる。明治17年(1884年)、伯爵となる。明治21年(1888年)10月、宮内省の式部官から外務省の公使館書記官となる。明治26年(1893年)3月、免官となる。大正10年(1921年)12月23日、脳溢血により東京市下谷の自宅にて死去した[3]。享年66。墓所は文京区護国寺

前田伯爵家を継承した養子の前田利男は、伯爵溝口直正の子である。

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栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族

脚注

参考文献

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