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前田長種

日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将。下之一色城主前田長定の子で、加賀八家前田対馬守家3代当主。越中守山城代・富山城代・加賀小松城代 ウィキペディアから

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前田 長種(まえだ ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将加賀藩士。加賀八家・前田対馬守家第3代当主[1]

概要 凡例前田長種, 時代 ...

出自

前田与十郎家は系図上では、加賀前田家美濃前田氏)の同族とされる。代々尾張国海東郡前田城下之一色城を有し、加賀前田家の本家筋にあたるといわれる。

生涯

天文19年(1550年)、前田長定の子として誕生する。

前田与十郎家は織田信長の家臣で、本能寺の変後に信長の次男・信雄に仕えた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い滝川一益の誘いで羽柴秀吉陣営に寝返るが、同年の蟹江城合戦で織田信雄・徳川家康の連合軍に敗れ、父・長定は妻子共々家康に殺害され、叔父・前田定利も斬られた[2]

本拠・下之一色城にいた長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり能登国七尾城を守備する。その後、越中国守山城代となり、幼少時の加賀藩3代藩主・前田利常を養育した。富山城代を経て、慶長10年(1605年)、加賀国小松城代となり、2万石を給された。

以後、直知直正孝貞孝資孝昌孝友孝本と前田対馬守家は続いた。また嫡男・直知の四男・恒知から分かれた家系(前田将監家)は、幕末の前田恒敬に至っている。4代・孝貞の次男・孝和(勘解由)からは前田勘解由家が分かれている。

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脚注

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