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劉宗周

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劉宗周
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劉 宗周(りゅう そうしゅう、1578年 - 1645年[1])は、中国末の儒学者陽明学を重んじた。は起東。号は念台。学生は蕺山(しゅうざん)先生と呼んだ。もとの名は憲章。紹興府山陰県(現在の浙江省紹興市越城区)の出身。

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劉宗周

略歴

劉坡の遺腹の子。幼い頃は貧窮のため母に従い会稽県の母方の祖父の章穎の家で育てられた。会稽章家の子孫には浙東学派章学誠がいる。

万暦29年(1601年)、24歳で進士に及第し、行人を授けられた。26歳の時、王陽明の学友の湛若水の弟子である許孚遠に師事した。34歳の時、山陰県の北の蕺山(しゅうざん)に書院を開き講学した。

天啓元年(1621年)、44歳の時、礼部主事となり、光禄寺丞、尚宝司少卿、太僕寺少卿を歴任した。天啓4年(1624年)、右通政となるが、魏忠賢のために弾劾されて罷免された。

崇禎帝が即位すると(1628年)、再び召されて順天府尹、工部侍郎、南京左都御史を歴任した。

崇禎5年(1632年)、55歳の時には高攀龍の要請に応じ、東林書院で講学している。

順治2年(1645年)、清軍により杭州が落とされると、絶食すること20日にして死去した。

思想

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