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加山又造
1927-2004, 日本画家、版画家 ウィキペディアから
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加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。京都府京都市上京区相国寺東門前町生まれ[1]。

経歴
祖父・田辺玉田は北陸若狭の出身で[2]、京都で活動の後、旅をしながら各地の風景を描いていく「旅の絵師」となり[2][3]、旅先の一つ、広島県で結婚し、父・田辺勝也も広島で生まれた[2][3]。祖父は広島を中心に中国地方で画家として活躍し、作品が二点広島県立美術館に収蔵されている[2]。父は幼少期を広島で過ごした後に父(又造の祖父)と共に京都に移り住み加山勝也と改名[2]。西陣織の図案家(デザイナー)となり[3]、1927年、又造は京都で生まれた[1]。
京都市立美術工芸学校(現 京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事[1]。戦時中は、学徒動員で山口県周防大島で勤労奉仕にあたり[2][3]、1945年8月6日、瀬戸内海の向こうに広島原爆のキノコ雲を見る[2][3]。後に「晴天の遥か彼方に、ピンク色の丸い雲がぽっかりと浮かび、地鳴りのような轟音が空気を揺るがした」と、その時の衝撃を振り返っている[3]。敗戦の記憶が、加山又造の芸術性に大きな影響を及ぼしたと言われている[3]。又造は岩国駅から無蓋貨車に乗り込み、焦土と化した広島を通過して故郷の京都に戻った[2]。一方、父・勝也は息子とはすれ違いで広島に向かい、自分の家があった場所や広島市内の親類の家を訪ね歩き、壊滅した広島の様子に大きな衝撃を受けて京都に戻るが、二人揃って京都で暮らし始めてから半年と経たずに父は風邪と栄養失調で世を去った[2]。加山は東京美術学校に復学するため母親と妹三人を京都に置いて再び東京へ向かう[2]。
1950年、春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選、研究会賞を受賞[1]。
1966年多摩美術大学教授、1988年東京芸術大学教授に就任。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた[1]。1970年代末からは水墨画にも取り組んだ[1]。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章[1]。2004年、肺炎のため東京都の病院で死去した[1]。

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代表作品
著書・画集
- 『加山又造自選画集』集英社 1975年
- 『加山又造の日本画』河出書房新社 アート・テクニック・ナウ 1978年
- 『現代日本画家素描集 6 加山又造 裸婦百態図』日本放送出版協会 1978年
- 『現代の美人画 6 (加山又造)』講談社 1978年
- 『加山又造=装飾の世界』京都書院 1979年
- 『加山又造素描集 裸婦20姿』座右宝刊行会 1979年
- 『現代日本画全集 第17巻 加山又造』滝悌三 集英社 1980年
- 『加山又造 裸婦』学習研究社 1983年
- 『現代の水墨画 8 加山又造・横山操』佐々木直比古解説 講談社 1983年
- 『加山又造全版画集 1955-1984』平凡社 1984年
- 『にっぽんのえ 現代トップアーティスト自選集 加山又造vs.長岡秀星』小学館 1984年
- 『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 加山又造/横山操』弦田平八郎責任編集 集英社 1986年
- 『加山又造全集』全5巻 学習研究社 1990年
- 『ゆふ 加山又造素描』前本ゆふ共著 中央公論社 1990年 「ゆふ 画文集」文庫
- 『加山又造全版画 カタログ・レゾネ1991』講談社 1991年
- 『現代の日本画 11 加山又造』岩崎吉一責任編集 学習研究社 1991年
- 『加山又造』日経ポケット・ギャラリー 1992年
- 『現代日本素描全集 8 加山又造』野地耕一郎責任編集 ぎょうせい 1992年
- 『白い画布 私の履歴書』日本経済新聞社 1992年
- 『加山又造屏風絵集成』小学館 1994年
- 『無限の空間』小学館 1994年
- 『花とけものたち』日経ポストカードブック 1998年
- 『加山又造全版画 補遺篇 2003』版画廊 2003年
- 『作品集加山又造』神戸新聞総合出版センター 2005年
- 『加山又造美いのり』二玄社 2008年
- 『加山又造全版画集 1955-2003』阿部出版 2009年
脚注
外部リンク
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