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北条政顕
日本の武将 ウィキペディアから
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北条 政顕(ほうじょう まさあき)は、鎌倉時代後・末期の武将・鎮西探題。北条氏の一門。父は金沢流北条実政で、金沢政顕とも称される。北条貞顕の従兄にあたる。
生涯
文永6年(1269年)[1][2]、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)ごろ、肥後守護となったという[3][4]。
正安3年(1301年)9月、父・実政の出家に伴い、家督と探題職・守護職を譲られる[5]。その後、15年ほどに亘って在任し、相論に対するものをはじめとした85通の裁許状や鎮西下知状[6]を発給している[1]。
その間、嘉元2年(1304年)ごろには上総介となっている[3]ようだが、翌嘉元3年(1305年)から延慶2年(1309年)までの間は北条宗方の陰謀事件(嘉元の乱)との関連により裁許状を発給していない[1]。
正和5年(1316年)には鎮西探題を辞任。その後、次の阿蘇随時が探題に就任するまで約1年間、嫡子の種時(たねとき)が代理で探題職を務めている[7]ことから、同年に没したとも考えられる。
脚注・出典
参考文献・関連史料
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