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千島 (通報艦)

日本海軍の水雷砲艦、通報艦 ウィキペディアから

千島 (通報艦)
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千島(ちしま)は、日本海軍水雷砲艦[4]、または通報艦[5]。艦名は千島列島 (または千島国[10]) に由来する[22][23]

概要 千島, 基本情報 ...
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概要

1886年(明治19年)12月上旬、フランスから日本へ回航中の巡洋艦畝傍」が行方不明となり(喪失認定)、日本側は保険金で巡洋艦「千代田」(イギリス)を建造した[24]。フランス側が建造したのが本艦である。

八重山」に続いて、日本海軍が建造した2番目の通報艦(当時の呼称は報知艦[5])になる[23]エミール・ベルタンが、自ら信奉する青年学派思想に基づいて[要出典]設計を行い、 水雷艇の駆逐任務も考えていた[21]。 また強力な魚雷兵装(発射管4門、魚雷10本の計画[21])を持ち、水雷砲艦とも称された[23]。 艤装面では艦首にバウスプリットがあり、巡航時の帆走を重視したフランス建造艦らしい特徴がある[25]

フランスから日本へ回航中の1892年(明治25年)11月30日、瀬戸内海でイギリス商船と衝突して沈没[26][27]。国内問題および国際問題に発展した(千島艦事件)。

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艦歴

計画

計画時の名称は第二報知艦[5]1886年 (明治19年) 9月、建造予定の通報艦2隻のうち、1隻の排水量を700トンに変更し、海外に注文することにした[28]1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定(厳島松島橋立八重山千島満珠干珠[5][29]1889年 (明治22年) 10月、フランスのロワール社と2,000,000フラン (兵器価格等は含まず[30]) で契約することを決定[31]、 11月11日に契約を締結した[9]

建造

1890年(明治23年)1月29日、「千島」はフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工[22]。 8月22日、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる[7]。 同年11月26日、進水[22][6]1891年 (明治24年) 12月24日行われた速力試験では19.655ノット (3回の単純平均) しか出せず (計画は22ノット[12]) 、同日4回目の計測はボイラーの故障により中止になった[15]。 会社側は何度も試験出来ると主張したが[15]1892年 (明治25年) 3月に引き渡しの遅延 (契約での引き渡し期限は契約締結日から16カ月[32]の1891年3月10日) を含めた減額を555,800フランとして、「千島」の引き渡しを求め[33]、 最終的な支払は429,563.96フランの減額で合意した[34]1892年(明治25年)4月1日、竣工[22]

回航・沈没

同年4月18日、フランスを出港[35]アレクサンドリア[36]アデン[37]シンガポール[38] などを経由して、同年11月24日に長崎に到着した[39] (暴風雨のための避難[40]) 。 11月28日、「千島」は長崎から神戸に向けて出港[41]したが、 悪天候の為に一旦引き返し、29日未明に再度出港した[42]。 11月30日午前4時20分頃に愛媛県興居島睦月島の間で神戸から出港したP&O社所属の商船「ラベンナ(Ravenna)」が「千島」中央部に衝突し、4時58分に「千島」は沈没した[43][44]。事故時の千島乗組員90名の内、74名が犠牲となった(生存者、千島艦長心得の鏑木誠大尉以下日本海軍15名、フランス人機関士1名)[45][46]。瀬戸内海所在の日本艦3隻(葛城武蔵筑波)等が救援に向かった[47][43]

この事故は国際問題と国内問題に発展した[48][49]。 横浜の英国領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴した[50]。 後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で1895年(明治28年)9月19日をもって和解となった(千島艦事件[51]

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艦長

  • (心得)鏑木誠 大尉:1891年1月19日[52] - 1893年2月6日(横須賀水雷隊攻撃部司令心得)[53][54]

脚注

参考文献

関連項目

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