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半井成信

日本の医師 ウィキペディアから

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半井 成信(なからい なりのぶ[3])は、安土桃山時代後期から江戸時代初期の医師。号は瑞桂驢庵(3代)。父の半井瑞策(2代驢庵)と同じ通仙院の院号を称した。徳川家康らの侍医を務めた。

概要 凡例半井成信, 時代 ...

生涯

半井光成(瑞策・2代驢庵)の子として生まれる[3]。幼少時には相国寺惟高妙安のもとに入室している[3]

駿府で徳川家康に仕え、薬を調進する[3]。のちには江戸に赴き、徳川秀忠にも薬を調進した[3]

寛永元年(1624年)、半井家の先例により、法印に叙されずに「通仙院」の院号を称し[3]、勅命によって深黒の素絹の着用を許された[3][注釈 3]。このとき「驢庵」の号は嫡孫の半井成近に譲っている[3]

成信の没年については以下のように諸説がある。

  • 寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では、寛永15年(1638年)4月11日没とする[3]
  • 『寛政譜』編纂時の呈譜には寛永11年(1634年)4月11日に京都において没、享年95とあったという[3]
  • 大徳寺真珠庵の墓石銘によれば、寛永16年(1639年)4月11日没[1][2]。享年95という[2]

『寛政譜』の半井成近の項目では、慶長16年(1639年)6月15日に祖父の遺領である山城国愛宕郡内500石[注釈 4]を継いだと記されている[3]

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家族

寛政重修諸家譜』は5男5女を載せる(女子については存在が示されるのみ)。5人の男子は以下の通り。

  • 長男:半井利親(瑞玄)
  • 二男:半井瑞沢(蛛庵) - 法印に叙される
  • 三男:半井宗閑
  • 四男:半井琢庵
  • 五男:半井瑞益(久庵)

長男の半井利親(瑞玄)は従五位下典薬頭・右衛門佐に叙されたが[3]、慶長8年(1603年)に25歳で没し、父に先立った[3]。このため、利親の子である半井成近(瑞寿・4代驢庵)が嫡孫とし家を継ぐこととなった[3]。なお、利親は藤堂高虎の娘を娶っており、成近は高虎の外孫となる[3]

備考

  • 徳川家康の招きによって関東に赴いた際、伏見城の搦手門を下賜され、京都・烏丸中立売の自邸に移築した[2]。この京都屋敷には、徳川家康が上洛した際に宿泊したとも伝えられる[2]

脚注

参考文献

関連文献

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