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半井瑞策

室町時代後期から安土桃山時代の医師 ウィキペディアから

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半井 瑞策(なからい ずいさく)は、室町時代後期から安土桃山時代医師。名は光成(みつなり[3])。瑞策は通称。晩年に剃髪して2代驢庵を名乗った。当代の名医として知られ、正親町天皇より『医心方』の写本を下賜されている。

概要 凡例半井光成, 時代 ...

生涯

半井明親(初代驢庵)の二男として生まれる[3]。兄には半井明英(寿琳、閑嘯軒)がいる[3]。医学に優れていたために父の医業を継ぎ[3]、晩年に剃髪すると父の「驢庵」の号を受け継いでいる[3]。瑞策の子孫が「驢庵」の号や典薬頭を世襲したため、兄の明英が分家したような形となるが[7]、このためか瑞策を明英の子とする系図がある[3][4]

正親町天皇(在位: 1557年 - 1586年)の時代、法印に叙すことが検討されたが、先任の法印がいる場合にはその上席に就けることができないため[3]、深黒の素絹を着用することを許し[3]僧綱によらずに[5]法印の上席とした[3]。これは他の医官と異なる半井家の特例となった[3][注釈 4]。また、天皇の勅命により、従来の「通仙軒」を改めて「通仙院」という院号を名乗ることを許され[3]、『医心方』の写本を下賜された[3]

織田信長とは親しい関係となり[7]、信長は京都に入った際に半井家の屋敷[注釈 5]を宿舎とした[3][注釈 6]。また、豊臣秀吉からも殊遇を得た[3][7]

文禄5年/慶長元年(1596年)8月25日死去 [1][2]。ただし「半井家系図」では天正5年(1577年)8月25日没、享年75としており[8][5]、『寛政譜』はこの没日を採る(享年の記載はない)[6]大徳寺真珠庵に葬られた[4]

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備考

  • 名医として知られた人物で、さまざまなエピソードが伝わる。
    • 寛政重修諸家譜』では以下のような話を載せている。あるとき近江国の人を診察した際に「必死の脈」があると診た。その人は病気もないために不審に思われていたが、その人は翌日に矢に当たって死亡したために、世の人は医術の精妙なことを称えたという。また、このような話は枚挙にいとまがないとしている[9]
  • 正親町天皇から下賜された『医心方』の写本は典薬頭半井家で門外不出の書として秘蔵され、現代まで伝わる。『医心方』の現存最古の写本であり、『医心方(半井家本)』として国宝に指定されている(半井家#医心方(半井家本)参照)。
  • 大徳寺塔頭真珠庵は、瑞策の父・明親(初代驢庵)の墓所であり、瑞策とその家族も葬られた[10]。真珠庵には瑞策夫妻の肖像画が伝わる[7]
  • 正親町天皇から御殿一式を拝領した[4][2][注釈 7]。そのうち書院1棟は真珠庵に寄進され[注釈 8]、「通遷院」の名で現存する[2](「眞珠庵通仙院」として重要文化財[12])。ただし、通遷院(通仙院)については、江戸時代初期[注釈 9]に正親町天皇の女御の化粧殿を移築したもの、という説明もされる[13]。瑞策が拝領した御殿の他の部分については、瑞策の子孫である半井成近の時に江戸・元吉原の屋敷に移されたものの、明暦の大火で焼失した[4]。また、瑞策の甥の手によって一部が堺に移されたともいい、『堺市史』(1929年)によれば堺市熊野町東一丁[注釈 10]の半井家邸宅には唐破風造の玄関を有する建物があったという[5]
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脚注

参考文献

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