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呂号第百十七潜水艦
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呂号第百十七潜水艦(ろごうだいひゃくじゅうしちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂百型潜水艦(小型)の18番艦。
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艦歴
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1943年(昭和18年)1月16日、川崎重工業泉州造船所[3]で起工。1943年9月13日進水。1944年(昭和19年)1月31日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、横須賀鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。
3月31日、呂117はパラオ大空襲により来襲した米機動部隊の迎撃のために出撃。4月13日、呉に到着[5]。5月14日、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入[4]。
15日、呂117は呉を出港し、24日にサイパンに到着[5]。26日にサイパンを出港し、31日にトラックに到着[5]。6月4日、トラックを出港し、ニューアイルランド北方沖の散開線に配備された。14日、グアム南方沖に移動。16日、テニアン島南東沖に移動するよう命令をうけるが[5]、この時に命令を受け取った反応を最後に消息不明[1][5]。
17日、サイパン南東沖でブラウン基地所属の米対潜哨戒機PB4Y-1 リベレーターが浮上航走中の潜水艦を発見。0338、哨戒機は空爆を行い、潜水艦を撃沈した[1][5]。これが呂117の最期の瞬間であり、艦長の榎本泰夫大尉以下乗員55名全員戦死[6]。沈没地点はサイパン南東350浬地点付近、北緯11度05分 東経150度31分。
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歴代艦長
艤装員長
- 不詳
艦長
- 榎本泰夫 大尉:1944年1月31日 - 6月17日戦死[6]
脚注
参考文献
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