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呂百型潜水艦

日本の潜水艦の艦級 ウィキペディアから

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呂百型潜水艦(ろひゃくがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍潜水艦の艦級。小型潜水艦潜小、または単に小型とも呼ばれた。1942年から1944年にかけて18隻が竣工したが、全艦戦没した。

さらに見る 呂一〇〇型潜水艦(小型), 艦級概観 ...
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概要

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写真は「呂101」。

1941年(昭和16年)の戦時計画(マル臨計画)で9隻、更に1942年(昭和17年)のマル急計画で9隻の計18隻が建造された離島防御用の小型の潜水艦。計画番号S45。小型で工期が少なく済み、量産に適していた。ブロック建造により各艦とも1年ほどで完成している。航続距離が短いなど、沿岸で運用することを前提とした設計となっていた。

兵装は小型の艦型のため砲を搭載せず機銃と魚雷のみ、主機はビッカース式ディーゼルを改良したものを搭載した。また冷却機も装備された。

本型は艦型が小型のため凌波性、速力、航続力、居住性などがともに低く、乗員の評判は良くなかったという[1]

完成後は本来の離島防御には使用されず、中部太平洋の哨戒任務などに従事した。商船または輸送艦を7隻、駆逐艦を1隻撃沈する。しかし1944年(昭和19年)5月から6月にかけて、サイパンアドミラルティ諸島方面の哨戒で一挙に7隻喪失するなど、すべて大戦中に戦没した。

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同型艦

  • 艦名
竣工日(建造所) - 沈没日、原因(沈没場所)

※建造所は呉=呉海軍工廠、川崎=川崎重工業

1942年9月23日竣工(呉) - 1943年11月25日、触雷(ブーゲンビル島ブイン
1942年10月31日竣工(川崎) - 1943年9月15日、哨戒機飛行艇)と米駆逐艦サンクリストバル島南東)
1942年11月11日竣工(川崎) - 1943年5月14日、魚雷艇ニューギニア南東ラビ付近)
1942年10月31日竣工(川崎) - 1943年8月10日沈没認定、米側記録なし(ソロモン方面)
1943年2月25日竣工(川崎) - 1944年5月23日、米護衛駆逐艦アドミラルティ北方)
1943年3月25日竣工(川崎) - 1944年5月31日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
1942年12月26日竣工(川崎) - 1944年5月22日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
1942年12月16日竣工(呉) - 1943年8月1日沈没認定、米側記録なし(ソロモン方面)
1943年4月20日竣工(川崎) - 1944年5月26日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
1943年4月30日竣工(川崎) - 1945年4月25日、米上陸用輸送艦沖縄南方)
1943年7月6日竣工(川崎) - 1944年2月12日、豪掃海艇、印砲艦ベンガル湾
1943年7月19日竣工(川崎) - 1944年6月10日、米駆逐艦(アドミラルティ北方)
1943年9月14日竣工(川崎) - 1945年2月11日、米潜水艦ルソン海峡
1943年10月12日竣工(川崎) - 1945年2月12日、米潜水艦(ルソン海峡)
1943年11月20日竣工(川崎) - 1944年6月17日、米駆逐艦(サイパン東方)
1943年11月30日竣工(川崎) - 1945年1月22日、米駆逐艦(フィリピン西方)
1944年1月21日竣工(川崎) - 1944年5月24日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
1944年1月31日竣工(川崎) - 1944年6月17日、哨戒機(サイパン東方)
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潜水隊の変遷

要約
視点

呂100型潜水艦は初期10隻が第7潜水戦隊所属となり、中部太平洋での哨戒任務に使用された。1943年(昭和18年)8月20日に5隻がまとめて第51潜水隊を編成して横須賀鎮守府に配備されているが、呂102、呂103、呂107は潜水隊に編入される機会がないまま戦没・行方不明となった。また、呂110、呂111、呂112、呂113、呂114は海大4型海大5型からなる第六艦隊第8潜水戦隊第30潜水隊に編入されてインド洋での哨戒任務に従事した。第30潜水隊については第30潜水隊の項で記述する。

第五十一潜水隊

第7潜水戦隊に所属していた呂100呂101呂104呂105呂106で編成。主にニューギニア方面の哨戒任務などに従事したが、あ号作戦のナ散開線で哨戒中に一挙に5隻を失う(ナ散開線の悲劇[2]など損耗が激しく、昭和19年8月15日に解隊された。

1943年(昭和18年)8月20日:呂100、呂101、呂104、呂105、呂106で編成[3][4]南東方面艦隊第7潜水戦隊。
1943年(昭和18年)9月1日:第51駆逐隊司令加藤良之助大佐[5]。第7潜水戦隊より呂108呂109を編入[6][7]
1943年(昭和18年)9月15日:サンクリストバル島南方沖で呂101戦没[4][8]。12月1日除籍[8]
1943年(昭和18年)11月25日:ブイン付近で呂100戦没[4][9]。2月5日除籍[9]
1944年(昭和19年)3月1日:第六艦隊に第7潜水戦隊ごと転属。
1944年(昭和19年)3月10日:第11潜水戦隊より呂115を編入[10]
1944年(昭和19年)3月25日:解隊した第30潜水隊より呂111呂112呂113呂114を編入。
1944年(昭和19年)5月4日:第11潜水戦隊より呂116呂117を編入[10]
1944年(昭和19年)5月22日:アドミラルティ諸島北方で呂106戦没。8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)5月23日:アドミラルティ諸島北方で呂104戦没[12][13]。8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)5月24日:アドミラルティ諸島北方で呂116戦没[14]。8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)5月26日:アドミラルティ諸島北方で呂108戦没[7][11]。8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)5月31日:アドミラルティ諸島北方で呂105戦没(加藤司令戦死)[15]。8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)6月9日:アドミラルティ諸島北方で呂111戦没[11][16][17]8月10日除籍[11]
1944年(昭和19年)6月17日:サイパン近海で呂114、サイパン南東沖で呂117戦没[18][14]。8月10日呂114、呂117除籍[11]
1944年(昭和19年)6月25日:第51潜水隊司令田上明次大佐。
1944年(昭和19年)8月15日:解隊。呂109、呂112は呉潜水戦隊に編入され[16]、呂113、呂115は第8潜水戦隊付属となる。
(1944年(昭和19年)9月25日:呂109、呂112は第33潜水隊に転出。以降は第33潜水隊の項に譲る。)
(1945年(昭和20年)2月1日:マニラ南西沖で呂115戦没[19][14]。)
(1945年(昭和20年)2月12日:ルソン海峡で呂113戦没[16][19]。5月10日除籍[19]。)
(1945年(昭和20年)2月20日:呂115(書類上在籍)は第34潜水隊に転出。以降は第34潜水隊の項に譲る。)

脚注

参考文献

関連項目

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