トップQs
タイムライン
チャット
視点
堀川広益
ウィキペディアから
Remove ads
堀川 広益(ほりかわ ひろます)は、江戸時代中期の高家旗本。権中納言・久我通名の子。通称は繁丸、左門、修理。官位は従四位上・侍従、兵部大輔。
![]() |
Remove ads
略歴
父・通名は、祖父・久我広通の長男であったものの、病気のために嫡子の地位を辞退していた。そのため広益は江戸に下り、幕府に仕えることになった。宝永7年(1710年)12月25日に6代将軍徳川家宣に御目見し、12月27日に御側高家に就任する。それに伴い従五位下侍従・兵部大輔に叙任し、上野国群馬郡内で500石を与えられる。後に従四位下、従四位上に昇進する。なお、広益の高家登用をもって、全ての高家が出揃うことになった。
享保元年(1716年)5月16日、御側高家の廃止により高家に転任する。宝暦2年(1752年)4月23日、高家肝煎となる。宝暦6年(1756年)4月7日、死去。享年63。
系譜
子女は5男4女。そのうち1人は養女である[1]。
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads