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宝暦
日本の元号 (1751-1764) ウィキペディアから
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改元
- 寛延4年10月27日(グレゴリオ暦1751年12月14日) 改元。前年の桜町上皇の崩御、この年の大御所徳川吉宗の薨去、そしてその間に発生した地震のためともみられる。
- 宝暦14年6月2日(グレゴリオ暦1764年6月30日) 明和に改元
公式には上皇と大御所の逝去を理由にしているものの、実際には凶作や地震を理由とした災異改元の要素があった。実際、天保改元の際には宝暦改元を前例として災異改元を行っている[1]。
出典
- 『貞観政要』の「及恭承宝暦、寅奉帝図、垂拱無為、氛埃靖息」から。
宝暦年間の出来事
- 3年 - 籾摺騒動
- 4-5年 - 宝暦治水事件(木曽三川分流工事)
- 4-9年 - 郡上一揆
- 5年 - 宝暦暦発布
- 7年 -「祇園御霊会細記」発刊
- 8年 - 宝暦事件
- 8年 - 土佐藩にて、下級武士が城下にて日傘(筍皮製)を差すことが、隠居した上士や医者、7歳未満の子供以外が浅黄張りの日傘を差すことが、各々禁止される[2]。
- 10年 - 土佐藩にて、8代藩主山内豊敷によって、下級武士は、5月~8月のみ、城下での日傘の使用が認められる[4]。
- 11年 - 上田騒動
- 13年 - 土佐藩にて、下級武士の下駄の使用が、役場内での勤務時のみ許可されるようになる[5]。
誕生
死去
西暦との対照表
要約
視点
※は小の月を示す。
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脚注
参考文献
関連項目
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