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堀田康人

弁護士、政治家 ウィキペディアから

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堀田 康人(ほった やすんど[1] / やすひと[2]1855年5月2日(安政2年3月16日[3][4])- 1921年大正10年)1月21日[3][1])は、明治から大正期の弁護士政治家衆議院議員、京都府会議長、京都市会議長、京都弁護士会長。幼名・作太郎[3]

経歴

尾張国名古屋園井町[3](現名古屋市[2]中区)で、尾張藩士・堀田平右衛門の長男として生まれる[3][4]。漢学を修め[1]、1869年(明治2年)家督を相続した[3][4]。1876年(明治9年)京都に移り、山本覚馬などから法律学、政治学を学び[3]、同年、免許代言人となった[3]。京都代言人組合会長、京都弁護士会長を務めた[1][2][3]

1887年(明治20年)三大事件建白運動を推進し、同年11月、建白書を元老院に提出[3]。1888年(明治21年)1月、京都府会議員に選出され5期在任し、1918年(大正7年)6月に辞任した[3]。この間、同参事会員を務め、1915年(大正4年)10月、第11代府会議長となり1918年6月まで在任した[3]。1892年(明治25年)3月、京都市会議員に選出され5期在任し[3]、2度市会議長(1905年1月-1908年1月、1910年4月-10月)を務めた[3]

1890年(明治23年)自由党に入党し[3]、1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙(京都府第1区、自由党)で当選[3][5]。衆議院議員に1期在任した[1]

その後、立憲同志会憲政会に所属し[3]護憲運動に加わった[3][2]。また日本赤十字社京都支部の常議員、商議員に在任した[3]

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国政選挙歴

著作

  • 阿部保治郎閲『民事訴訟法実例』精理館、1891年。

脚注

参考文献

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