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堀田正路 (海軍軍人)

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堀田 正路(ほった まさみち、1879年明治12年)12月31日 - 1973年昭和48年)2月18日)は、日本海軍軍人華族。旧佐野藩堀田家当主で爵位子爵。軍人としての最終階級は海軍中佐位階勲等は1939年時点で正三位勳三等功四級に叙されている[1]

概要 堀田(ほった) 正路(まさみち), 生誕 ...

経歴

河内狭山藩最後の藩主であった北条氏恭の次男である。氏恭は佐野藩主堀田正衡の子で、最後の佐野藩主堀田正頌の叔父にあたる。正路は従兄でもある正頌の養子となり、1896年(明治29年)に襲爵した。

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「浅間」は第二艦隊第二戦隊に属して日本海海戦を戦った。写真は1898年に撮影したもの。

正路は海軍兵学校に進み、1901年(明治34年)29期生として卒業。席次は125名中21番[2]で、 1903年(明治36年)1月に少尉に任官した。「浅間」乗組みとして日露戦争に参戦し、艦載水雷艇を指揮して第二軍の上陸作戦を援護[3]し、機雷の設置や魚雷攻撃を行っている。日本海海戦は同艦の分隊長として戦った[4]

戦後は水雷艇」艇長(大尉[5]軍令部出仕(少佐[6]を経て、1907年大正6年)から翌々年にかけて駐米大使館附武官補佐官(中佐)として米国に駐在し、造船造兵監督官を兼任した[1]。上司の武官は野村吉三郎である。日本海軍の仮想的国である米国での駐在勤務は顕職であった[* 1]。帰国後横須賀鎮守府[7]を経て、1922年(大正11年)8月16日予備役編入となる[8]

日露戦争時の正路について「浅間」艦長八代六郎は以下のような報告を行っている。

海軍少尉正五位子爵 堀田正路

明治三十七年六月及七月二亘リ前後六回艦載水雷艇ヲ指揮シ旅順口前ニ於テ特殊機雷水雷ノ沈下夙ニ魚形水雷ヲ以テ敵艦襲撃ヲナシタルハ忠勇絶倫真ニ軍人ノ模範タルヘキモノトス

日露戦役実験摘録(2) 軍艦 吾妻 浅間 八雲 富士 千鳥 真鶴 明治37-38
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栄典

位階
勲章等

脚注

参考文献

関連項目

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