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増田頼興
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増田 頼興(ますだ よりおき、文政3年(1820年)? – 慶応2年(1866年)3月18日)は、江戸時代末期の幕臣(旗本)。通称は徳蔵、のちに作右衛門。家紋は抱き沢。家禄百俵の中級幕臣で、主に勘定方として活動し、飛騨郡代として地震復興にも尽力した。
生涯
増田作右衛門頼興は、上野国を本国とし、武蔵国を生国とする幕臣。または利根郡政所村(現群馬県利根郡みなかみ町)生まれである[1]。祖父・増田弘左衛門は有馬左兵衛家の家臣、父・増田作右衛門は幕府の支配勘定を務めた[2]。文政3年(1820年)生まれとされるが、文献の一部では「寅年生まれ(1801年ごろ)」とする異説もある[1]。
幼名は徳蔵で、9歳のとき養父作右衛門の跡を継ぎ改名した[1]。文政10年(1827年)12月25日に家督を継承し、西丸表火之番に就任、その後西丸御徒目付に進んだ[2]。西丸火災の際には功績を挙げ、銀錠を賜ったという逸話も残る[1]。
その後、勘定評定所留役助、弘化4年(1847年)には下代官として永々御目見以上の待遇を受け、安政5年(1858年)3月23日に飛騨郡代に任じられ、家禄を百俵高に加増された[2]。着任直後には、同年2月26日に発生した飛越地震(安政飛越地震)の復旧に尽力したことが記録される。
飛騨赴任以前には、丹後久須美、大坂陣屋などを経て代官を歴任し、領内騒動の鎮定・論地検分などにも従事している[1]。元治元年(1864年)4月6日には勘定吟味役に昇進したが、慶応2年(1866年)3月8日、病により免職を願い出て寄合となり、18日に死去した[2]。
屋敷は下谷に構えていたと伝わる。飛騨郡代としての統治や復旧事業の実績により、頼興は飛騨地方の歴史でも重要人物として扱われる。
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脚注
参考文献
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