トップQs
タイムライン
チャット
視点

大久保偵次

ウィキペディアから

Remove ads

大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年明治16年)6月15日 - 1973年昭和48年)2月10日[1])は、日本大蔵官僚銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子[2]となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る[* 1]

概要 大久保 偵次, 生誕 ...

生涯

Thumb
大久保の局長在任時は主に齋藤内閣の時代で、大久保は大蔵大臣高橋是清(左)を補佐する。齋藤内閣は帝人事件で総辞職した。

鹿児島県に生まれる[3]。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる[4]

官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった[5]。銀行局検査課長、日本銀行横浜正金銀行の検査官を経て1930年(昭和5年)3月、銀行局長に就任。1934年(昭和9年)帝人事件で収賄に問われ休職となる。 市ヶ谷刑務所に収監された際には革手錠が使用された。このことについて貴族院議員の岩田寅造が司法省を追求した[6]。 しかし、この事件の裁判では被告16名全員が無罪となった。穂積重遠は帝大同期生有志101名を代表して大久保を弁護した[7]

その後は北支那開発理事[8]、同社経理部長[9]、金属回収統制会社社長[1]を務めた。

戦後に公職追放となり[10]、同郷後進の育英事業に尽力する。1905年(明治38年)、大久保は土居通次(のち徳島県知事)と北海道学生会を創設していた[11]1933年(昭和8年)、会は財団法人北海道在京学生後援会に発展し、その初代理事長に就任。東京大空襲で寮が焼失したため、他の一人と個人保証で融資を受けて再建した[3]1970年(昭和45年)まで在任し[3]、前年には藍綬褒章を授与されている[3]

大久保の妻は大審院院長池田寅二郎の妹スミ[8]フランス文学者大久保輝臣は長男[3]である。

Remove ads

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads