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大久保偵次
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大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月15日 - 1973年(昭和48年)2月10日[1])は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子[2]となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る[* 1]。
生涯

鹿児島県に生まれる[3]。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる[4]。
官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった[5]。銀行局検査課長、日本銀行と横浜正金銀行の検査官を経て1930年(昭和5年)3月、銀行局長に就任。1934年(昭和9年)帝人事件で収賄に問われ休職となる。 市ヶ谷刑務所に収監された際には革手錠が使用された。このことについて貴族院議員の岩田寅造が司法省を追求した[6]。 しかし、この事件の裁判では被告16名全員が無罪となった。穂積重遠は帝大同期生有志101名を代表して大久保を弁護した[7]。
その後は北支那開発理事[8]、同社経理部長[9]、金属回収統制会社社長[1]を務めた。
戦後に公職追放となり[10]、同郷後進の育英事業に尽力する。1905年(明治38年)、大久保は土居通次(のち徳島県知事)と北海道学生会を創設していた[11]。1933年(昭和8年)、会は財団法人北海道在京学生後援会に発展し、その初代理事長に就任。東京大空襲で寮が焼失したため、他の一人と個人保証で融資を受けて再建した[3]。1970年(昭和45年)まで在任し[3]、前年には藍綬褒章を授与されている[3]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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