トップQs
タイムライン
チャット
視点
大岡忠要
日本の江戸時代中期~後期の大名 ウィキペディアから
Remove ads
大岡 忠要(おおおか ただとし)は、江戸時代中期の大名。武蔵国岩槻藩第3代藩主。大岡忠房家6代当主。大岡忠喜の長男。
![]() |
天明元年(1781年)、10代将軍徳川家治に拝謁し、従五位下式部少輔に叙任する。天明2年(1782年)、父・忠喜の隠居により家督を継ぐ。就任してまもなく、天明の大飢饉が起こり、同時に天災続きで岩槻藩は財政難に陥ったため、忠要は藩士の児玉南柯を勝手向取締役に任命して、厳しい倹約令を布き、岩槻藩の財政改革を実施させたが、危機の打開には至らなかった。天明5年(1785年)に奏者番に就任するが、翌天明6年(1786年)、父・忠善に先立って死去した。享年21。
家督は弟の忠烈が継いだ。
Remove ads
系譜
父母
- 大岡忠喜(父)
養子
- 大岡忠烈 - 実弟
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads