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大島連絡船

かつて運航されていた日本国有鉄道の鉄道連絡船 ウィキペディアから

大島連絡船
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大島連絡船(おおしまれんらくせん)は、山口県玖珂郡大畠町(現・柳井市)の大畠駅にすぐ近い桟橋から同県屋代島(周防大島)の小松港(山口県大島郡大島町=現・周防大島町)までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の航路鉄道連絡船)である。航路は大畠瀬戸最狭部のすぐ西側を通った。大島大橋の架橋により1976年(昭和51年)に廃止となった。

概要 大島連絡船(大島航路), 概要 ...

経営成績は良好で黒字経営を続け、自動車の航送も行った。周防大島内は小松から発着する国鉄バスの路線網(大島線)があった[1]

前身は周防大島と本州の便を図る目的で山口県が開設した同じ航路の無料連絡船だったが、1946年(昭和21年)に国鉄に移管され有料となった。

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概要

大畠 - 小松港間の営業キロは3.0 km擬制キロ。実キロは2.8 km[2])。

大畠駅の桟橋は、山陽本線大畠駅の改札を出て踏切を渡り200m歩く必要があった(駅舎や跨線橋とは直結していなかった)[3]

小松港には、桟橋の他に、航路を管理する事務所兼駅舎があり、その横には島内各地へ向かう国鉄バスのターミナルがあった。

末期となる1976年4月当時は、34往復が所要13分で運航していた。同時期の使用船舶は、大島丸(266トン)と安芸丸(223トン)の2隻。大島丸は廃止後、宮島連絡船に転属している。

廃止後、大畠の桟橋は撤去された。小松港の駅舎などはそのまま残され、乗船時の注意事項を記した看板も残っていたが、1985年ごろに実施された港内整備の際に取り壊された。また、国鉄バスのターミナル部分は、国鉄バス大島営業所の敷地となった。

沿革

  • 江戸時代より、毛利萩藩の御用船は、本土側の遠崎[4](柳井市)と郡役所が所在する久賀(周防大島)との間を繋いだ。
    • 周防大島小松の渡船業も本土との間を繋ぎ、本土側の渡船場は同じく遠崎だった。
    • 明治期に遠崎から大畠港(石神川河口西)へ渡船場を移した。
  • 1897年明治30年):山陽線大畠駅開業
  • 1899年明治32年):大畠駅の近くへ桟橋が造られ、渡船場が移動した。
  • 1921年大正10年)7月28日:大島渡船組合が、神代(大畠)―鳴門(小松)間航路を開設。
  • 1937年昭和12年)10月1日:山口県が継承し、大畠ー小松港間の無料航路を開設
  • 1946年昭和21年)4月24日:県営から国鉄(運輸省)に移管、国鉄の鉄道連絡船の一つとなる。
  • 1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道法施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管。
  • 1954年(昭和29年)7月:自動車の航送を開始。
  • 1976年(昭和51年)7月5日:大島大橋開通に伴い、役目を終えて廃止。
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就航していた船舶

他の航路

現在、小松港からは笠佐島への離島航路が発着している。

過去には、小松開作港(小松港の南西1km)と柳井港との間の航路があり(防予汽船)、1964年以降自動車の航送も行われた。大島大橋開通に伴い1976年に廃止された。

脚注

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