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大梵天王問仏決疑経
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『大梵天王問仏決疑経』(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)は、2巻本と1巻本が現存するが[1]偽経とされている。道元が痛烈な非難をあびせたことで知られる[2]1188年完成の『人天眼目[3]』「宗門雜録」中に「偶見大梵天王問佛決疑經三卷」と記述があり、嘗ては3巻本『大梵天王問佛決疑經』があったことを窺わせるが残存していない。木村俊彦は『大梵天王問佛決疑經』が11世紀半ばに製作された[4]と推測している。
概要
要約
視点
現存する2巻本、1巻本ともに「拈華微笑」説話を含んでおり、また『人天眼目』「宗門雜録」にある王荊公の話[5]が『大梵天王問仏決疑経』「拈華微笑」説話出典説とともに受容されてきた[6]。3巻本に関しては、『人天眼目』の言及以外に情報がなく、実在したのどうかも問題となっている。
靑龍虎法(駒澤大学)は、1941年の論文に、「『傳法正宗記[7]』開版頃活躍して居た王荊公(1086寂)が靈山拈華密付の經證として大梵天王問佛決疑經を被見したと云ふ事が人天眼目(1188)や佛祖統紀(1269)等に説かれてゐるが、この經は禪の傳燈書では全く問題にされてゐないし、既に史家からは僞經とされてゐるから玆では採り上げないが、若しこの經がこの時代に存したと假定すれば恐らくは當事禪林に傳へられて居た靈山密付説や廣燈録のそれに經證を與へんとした僞作たるに相違ないであらう。[8]」とあり、『大梵天王問佛決疑經三卷』は偽經に相違ないと指摘している。
木村俊彦[9]は無著道忠『禪林象器箋[10]』(1744年)の記事[11]を根拠に、すなわち『人天眼目』「宗門雜録」にある「此の經は多く帝王の佛に事えて請問せしむるを談ず。所以に祕藏して世に聞く者無し」。及び『人天眼目』「宗門雜録」が完成した1188年前後の北宋の皇帝は2代太宗から9代欽宗、さらに南宋の初代高宗まで名に『宗』字があり、諱として大蔵経に入れられなかった。かくて「世尊拈花」の史伝は実在して煙滅した『大梵天王問佛決疑經』に由来すると示唆している[12]。
2巻本 巻上の冒頭には、末尾に「無著謹誌」と署名された10か条の「大梵天王問佛決疑經凡例」がある。その3番目の条に「斯の經の出處は、分明に説くを敢えてせ不。蓋し予に付せる人の秘蔵せるを以ての故に、深く来歴を説くを誡む。讀む人は穿鑿を加えること毋かれ[13]。」、また5番目の条に「斯の經の傳寫、譯人之名を失す。之を怪しむこと莫かれ[14]。」等。これらを書いた無著については巻下の大尾にある識語の筆者だが伝記等詳細は不明である。
禅宗の灯史は、屡々その始まりを示すものとしてよく知られる「拈華微笑」説話を掲げるが、その典拠として『大梵天王問仏決疑経』を挙げているものが散見される。例えば1004年に朝廷に上程された『景徳伝灯録』には、「拈華微笑」説話が見られないが、1228年刊の佚存書『無門関』の第6則[15]は一般に『大梵天王問仏決疑経』が典拠であり、その裏付けとして『人天眼目』があったとされる[6]。しかし『人天眼目』刊行以前の、1183年成立の『聯灯会要』も「拈華微笑」説話を載せている[16]。 石井修道は、『無門関』の第6則の出典は『大梵天王問仏決疑経』ではなく、1093年の『宗門統要集[17]』巻1「釈迦文[18]仏章」であると断言している[19]。
以上は、『大梵天王問仏決疑経』3巻本についてのものであるが、2巻本については、中国ではなく日本撰述説がある。面山瑞方は江戸時代中期の曹洞宗の僧であるが、『大梵天王問仏決疑経』日本撰述説を説いた。1766年の著書『大智禅師偈頌聞解』巻上(全3巻)に「コノ題ハ、『結夏録』ノ粘華瞬目ノ普説ニ、古証ヲ引テ邪計ヲ破ス。大切ナ宗門ノ妙則ヲ、中古カラ邪解スル師家多シ。総ジテ瞬目ノ二字ナキハ邪解トシルベシ。『大梵天王問仏決疑経』モ、支那ニ風説バカリ。題号ハアリテ経ハナシ。王荊公ガ見タト「宗門雑録」ニアルモ、禅林ノ妄説ヨ。日本ニコノ経アルハ、洞家ノ僧ノ偽作ナリ。教外別伝ノアヤマリハ、『宝慶記』ニテ委悉スベシ。云々[20]」と、曹洞宗僧による偽作説を説いているが、その根拠は記されていない。
諦忍律師妙龍も江戸時代中期の真言律宗の僧であるが、遷化半年前の空華老人名義による著作『空華談叢 巻之二』「偽経」に、『延命地蔵経』『虚空蔵経』『三身寿量無辺経』『血盆経』『因果経』『随求経』『不動経』『大梵天王問仏決疑経』の名をあげ、「皆是 中古日本人ノ所造ナリ。凡ソ汗牛充棟ノ真経真軌五千余巻アルニ、何ンノ不足アリテカ若ル偽経ヲ作リテ世ヲ迷スヤ。誠ニ悲シキ事ナリ[21][22]」と、偽造であると判定するが、面山瑞方と同じく根拠は記されていない。
明治38年になって、忽滑谷快天が面山瑞方・諦忍律師妙龍の日本撰述説の欠如を補うべく研究を進めたが[23]、これは2巻本についてのもので、1巻本『大梵天王問佛決疑經』及び1巻本と2巻本の関係については触れていない。石井修道は1巻本の記述を分析し、内容が密教色を強く帯びていることを見出し、『人天眼目』が撰述された時代の看話禅と相容れないことを指摘し、積極的に中国撰述ということの根拠は見いだせないと述べている[24]。
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注・出典
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