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大矢四郎兵衛

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大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日安政4年12月19日) - 1930年昭和5年)9月25日[1])は、日本の富山県出身の実業家政治家衆議院議員

経歴

礪波郡鷹栖村(現・砺波市)の大地主の家庭に次男として生まれる[1][2]。父と兄を早くに失い、14歳で家督を相続する[1]金沢の私塾「竹下塾」に遊学ののち、帰郷して1885年(明治18年)、富山県会議員に当選した[1][2]1892年に落選後、1894年に鷹栖村長となり、1895年に県会議員に再度当選し、議長に就任している[1]

1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙憲政本党より富山県第4区から立候補して当選し、1903年まで3期務めた(選挙区は、第7回総選挙では富山県郡部第5区、第8回総選挙では富山県郡部第2区)。

一方実業家としては、1894年には中越銀行、1897年には鷹栖銀行(いずれも北陸銀行の前身の一つ)の創設に携わる[1][2]。1894年には富山日報(現・北日本新聞)の社長にも就任した[1]。1895年、礪波と高岡を結ぶ鉄道の必要性を訴えて自ら出資し、中越鉄道(現・城端線)の社長に就任した[1][2][3]1897年に開業にこぎ着けるものの、業績不振やそれに起因する株価の暴落に見舞われ、私財を手放して[注 1]1900年12月に退社した[1][2][注 2]

中越鉄道を退職したあと、北海道開拓を決意して岩内郡小沢村(現・共和町)の土地貸し付けを受け、政界を引退後の1904年に家族で移住した[1]。農場を経営しながら度々鷹栖村に帰り砺波鉄道(のちの加越能鉄道加越線)の相談役にもついた[4]。また国富鉱山の煙害反対運動に関わり結果を見ないまま[5]1930年9月25日、移住先の小沢村で死去[1]

1938年に鷹栖村神明社境内に銅像が建てられる[1]。正面の揮毫は若槻礼次郎。背面の碑文は尾崎行雄が寄せている[1]。戦時中に金属供出により失われたが1960年に再建された[1][6]

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脚注

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