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婁師徳

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婁 師徳(ろう しとく、630年 - 699年)は、唐代軍人政治家は宗仁。本貫鄭州原武県[1][2]

経歴

弱冠にして進士に及第し、江都県尉に任じられた。揚州長史盧承業はかれの才能を奇とし、宰相の器とみなし、通常の属官としての礼遇にとどめるべきでないと述べた[1][2]

上元元年(674年)、師徳は監察御史に任じられた。ときに吐蕃が国境を侵犯し、唐の朝廷が吐蕃を討つべく猛士を募集すると、師徳はこれに志願した。高宗に喜ばれ、朝散大夫の位を受け、軍を率いて吐蕃を討ち、たびたび戦功を挙げた。殿中侍御史に転じ、河源軍司馬を兼ね、知営田事をつとめた。天授2年(691年)、知営田事のまま、左金吾衛将軍に任じられ、検校豊州都督を兼ねた。武則天に書を降されて労をねぎらわれた[1][2]

長寿元年(692年)、師徳は洛陽に召還されて、夏官侍郎となり、判尚書事をつとめた。長寿2年(693年)、同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった。長寿3年(694年)、河源軍・積石軍・懐遠軍・河州蘭州鄯州廓州等州検校営田大使となった。まもなく秋官尚書に転じ、原武県男に封じられた。万歳登封元年(696年)、知政事のまま、左粛政大夫に転じた。吐蕃が洮州に侵攻してくると、師徳は王孝傑とともに吐蕃を討ち、吐蕃の大将の論欽陵と弟の賛婆と素羅汗山で戦って敗れた。万歳通天元年(同年)、師徳は原州司馬に左遷された[3][2]

万歳通天2年(697年)、師徳は入朝して鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。検校右粛政大夫を兼ね、そのまま知左粛政台事をつとめた。王懿宗狄仁傑とともに道を分かれて河北諸州を安撫した。神功元年(同年)、納言に任じられ、譙県子に封じられた。聖暦元年(698年)、師徳は隴右諸軍大使となり、そのまま検校河西営田事をつとめた。聖暦2年(699年)、突厥が侵入してくると、師徳は検校并州長史となり、そのまま天兵軍大総管をつとめた。この年の9月に死去した。享年は70。涼州都督の位を追贈された。は貞といった[3][4]

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脚注

伝記資料

参考文献

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