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安弘見神社
岐阜県中津川市にある神社 ウィキペディアから
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安弘見神社(あびろみじんじゃ)は、岐阜県中津川市蛭川中切に鎮座する神社。旧社格は村社。毎年4月に行われる例祭では、杵振り踊りが奉納される。
祭神
- (本社)主祭神
- 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
- (本社)配祀神
- (筑紫社)
- (別社)
歴史
創建時期は不明であるが、元々は京都の観慶寺感神院持祇園社から奥野田に勧請されたのが始まりと伝えられ、
正長元年(1428年)、尹良親王と伴に蛭川へ逃れて来て定住した南朝方の重臣であった和田政忠の子孫である和田政通の十回忌の際に現在地に遷座し、和田一族の御霊が合祀されたという。
慶長19年(1614年)12月に、蛭川村の初代庄屋と二代庄屋の井口又左衛門と吉助を願主として、八龍権現と記された棟札が残っている。八龍権現とは建速須佐之男命の垂迹名であろう。
幕末までは神仏習合による祇園信仰により、牛頭天王を祭神とする牛頭天王社と称していたが、
明治元年(1868年)に施行された神仏分離の際に、神社名を安弘見神社に改め、牛頭天王と同体である建速須佐之男命への祭神の変更を行った。
安弘見とは岐阜県笠置山の周辺の地名である安弘見郷に拠ったものである。
明治3年(1870年)、本社と枝宮5社の大改築が行われ、同年4月13日に完成した。
明治4年(1871年)、神社の境内に芝居興行のための大舞台があったが撤去され、拝殿を兼ねた調進所が建てられた。
明治5年(1872年)、境内に井戸が掘削された。
明治22年(1889年)、また社殿や境内の大改修が行われた。本殿の後方を掘って上段を拡げ、前に幣殿[1]を建てて囲垣・石積などの大改造を施した。
明治29年(1896年)11月23日、日清戦争の戦勝を記念して、村民の浄財によって石の大鳥居が完成した。
明治43年(1910年)2月10日、岐阜県知事の薄定吉によって神饌幣帛料供進神社[2]に指定されて村社となった。
大正2年(1913年)から大正3年(1914年)にかけて、神前の拝殿を改修し、
大正6年(1917年)には、社務所を建築した。
昭和11年(1936年)には、神殿の敷地と前庭の拡張工事を行った。
昭和28年(1953年)3月10日、岐阜県神社庁から金幣社に指定され、献幣使が参向するようになった。
昭和44年(1969年)2月11日に社務所の改築について起工式が行われ、4月30日に竣工し、5月4日に落成報告祭を兼ねて大祭を執行した。
境内
かつて境内には瑠璃光堂(薬師堂)があり、本尊は薬師如来であった。
今に伝わる杵振り踊りや獅子舞は、この薬師堂に奉納されていたものと伝わる。
この薬師如来がいつから祀られていたかについては、明治3年(1870年)の苗木藩の廃仏毀釈の際に薬師堂は取り毀されて記録が破棄されたため不明となっているが、薬師如来像は密かに隠されて、現在は念仏堂に安置されている。
蛭川村の南朝伝説によると、宗良親王の御子尹良親王が、この地で崩御されたが、その重臣達が舞を伝え、後に杵振り踊りになったとも言われている。
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指定文化財・天然記念物
岐阜県指定無形民俗文化財

- 蛭川の杵振り踊り
所有者、保持者等:杵振花馬保存会 指定年月日:昭和31年7月12日
杵振り踊りは杵振り祭りとも云われ、獅子舞に付随した踊りとして伝わる。安弘見神社例大祭に奉納される。行列の構成は、稚子、鬼、天狗、おかめ、ひょっとこ、杵振り、お囃子、蠅追い。[3]
映画
男はつらいよ 寅次郎の告白で、安弘見神社がロケ地の一つとされ花馬奉納の場面が使用された。
参考文献
- 『蛭川村史』 第四節 近世 六 神社と寺 (一) 牛頭天王社 p313~p315 蛭川村村史編纂委員会 1974年
- 『蛭川村史』 第五節 近・現代 九 宗教・神社 (四) 安弘見神社 p788~p797 蛭川村村史編纂委員会 1974年
外部リンク
注釈
出典
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