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宗性

1202-1278, 鎌倉時代の華厳僧。藤原隆兼の子。東大寺別当、権僧正。勅撰集『続拾遺和歌集』に1首入集 ウィキペディアから

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宗性(そうしょう、建仁2年(1202年)- 弘安元年6月8日1278年6月29日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての東大寺。当時の華厳宗の重鎮であった[1]。父は藤原隆兼。学僧として著名な東大寺の凝然は宗性の門弟にあたる[2]

人物略歴

建保2年(1214年)、東大寺に入って道性に師事して得度東大寺の中院・尊勝院に住した。僧綱・権大僧都を歴任し、文応元年(1260年)には東大寺別当に任じられた。旧仏教の復興に努め、寛喜2年(1230年)には笠置山貞慶の感化によって弥勒信仰に傾倒し、文暦2年(1235年)には『弥勒如来感応抄』を著している。また、建長3年(1251年)に『日本高僧伝要文抄』を撰述[1]文永6年(1269年)、権僧正に任じられている。東大寺には宗性自筆の稿本が数多く残り、彼の学識の高さをよくしめすものであるが、中には飲酒や男犯などの当時の堕落を表す資料も含まれている。建治元年(1275年)8月9日、74歳の高齢で南都を離れて、南山城笠置寺般若院の僧房に籠り、8月20日以降、『地持論指示抄』『華厳探玄記香薫抄』『華厳宗祖師伝』などを抄しはじめている。これらの高僧伝を編纂したのは、『弥勒如来感応抄』において自ら述べているように、伝記編纂の功徳によって自身が都率天に往生するためであった[3]

同性愛者であり、100人近くの稚児と関係を持った[4][5]

彼が南都を離れたのは、建治元年(1275年)8月4日に、年来同宿してきた児の力命丸が、全く過はないのに、興福寺林小路で殺害されたのが原因であるとされる。[6]

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著作

  • 『弥勒如来感応抄』
  • 『日本高僧伝要文抄』
  • 『地持論指示抄』
  • 『華厳探玄記香薫抄』
  • 華厳宗祖師伝』
  • 『倶舎論本義抄』

脚注

参考文献

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