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宗義功 (富寿)

対馬国府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。子に暢孫質直(三男)、津江左善(四男 ウィキペディアから

宗義功 (富寿)
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宗 義功(そう よしかつ)は、対馬国府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。

概要 凡例宗義功, 時代 ...
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生涯

安永2年(1773年)2月29日、第10代藩主・宗義暢の六男として生まれる。ただし江戸幕府の記録では兄と生年を合わせるために明和6年(1769年)生まれと報告している。天明5年(1785年)に兄で第11代藩主だった猪三郎が死去したが、猪三郎は第10代将軍・徳川家治御目見していなかった。改易を恐れた家臣団は幕閣の示唆もあって、猪三郎の弟である富寿と種寿のうち、死去したのは種寿であるとして、富寿を義功に、種寿を富寿にそれぞれすり替え、そして富寿が家督を継いで藩主となった。ただし幕府の記録では、兄に合わせるため安永7年(1778年)相続ということにされている。

天明7年(1787年)から親政を開始し、倹約の徹底や講武所・講学所の設置などに務めたが、もともと病弱で若年のため、家臣団は主導権や交易をめぐっての派閥争いを繰り返し、藩も財政難になるなどの混乱が続いた。寛政2年(1790年)11月、従四位下・侍従・対馬守・式部大輔に叙任される。

文化9年(1812年)10月2日、家督を次男の義質に家督を譲って隠居する。文化10年(1813年)5月17日に死去した。享年41。

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系譜

  • 父:宗義暢(1741年 - 1778年)
  • 母:織江、瑞祥院 - 永留藤右衛門の娘
  • 正室:彰順院 - 大炊御門家孝の娘
  • 側室:シケ - 大山治部允の娘
  • 側室:熊 - 熊生弥五六の姉
  • 側室:村上新介の娘
  • 生母不明の子女
    • 三男:暢孫質直
    • 四男:津江左善
    • 五男:大浦伯耆
    • 女子:徳 - 松平斉典正室のち九条尚忠正室

偏諱を与えた人物

  • (かつしげ、次男で次代藩主。のち義質に改名)
  • 杉村功加(宗氏家臣で、次代・義質亡き後、その遺言を偽造して政争を巻き起こす原因を作ったとされる)

関連項目

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