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寛延
日本の元号 (1748-1751) ウィキペディアから
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寛延(かんえん、旧字体:寛󠄁延󠄂)は、日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。
改元
なお、当初4月25日改元の予定であったが、前将軍徳川家継の33回忌法要当日にぶつけてきたことから幕府が激怒、さらに朝鮮通信使も来日中と言うことで強く反対して、改元を進めたいとする朝廷との間に紛糾を招いたものの、2ヵ月半の延期で両者が折り合った[1]。
出典
『文選』の「開寛裕之路、以延天下之英俊也」から。
寛延年間の出来事
- 元年 画譜・画論書『芥子園画伝』(元禄年間に伝来)翻刻[2]。
- 元年 土佐藩に關公膳という医者が京都から招かれ、日傘の風習を土佐に初めて持ち込む。以降、長らく日傘は「公膳傘」と呼称される[3]。
- 元年8月 『仮名手本忠臣蔵』(人形浄瑠璃) 大阪・竹本座で初演。同年歌舞伎化。
- 元年9月 加賀騒動で配流されていた大槻伝蔵自害。
- 元年10月 寺社奉行大岡忠相が奏者番を兼任、1万石の大名になる。
- 元年12月15日 琉球からの慶賀使、将軍家重に拝謁[4]。
- 2年 土佐藩にて上士が日傘を使い始め、「手傘」と称する[5]。
- 2年1月 姫路寛延一揆[6]
- 2年5月
- 2年7月
- 2年5月29日 直方隕石落下(貞観3年(861年)に落下とも)。
- 2年11月15日 尾張藩主徳川宗勝が幅下学問所を「明倫堂」と命名する。
- 2年12月24日 会津寛延一揆(金曲騒動)
- 3年11月 幕府が農人の苗字帯刀禁止を再び行う。
- 3年12月8日 幕府が寺社の富突きを禁止[9]。
- 4年 松前藩が加藤嘉兵衛を樺太に派遣。
- 4年7月18日 田沼意次が側用取次に就任[10]。
誕生
死去
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
参考文献
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