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桃園天皇
日本の116代天皇 ウィキペディアから
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桃園天皇(ももぞのてんのう、1741年4月14日〈寛保元年2月29日〉- 1762年8月31日〈宝暦12年7月12日〉)は、日本の第116代天皇(在位: 1747年6月9日〈延享4年5月2日〉- 1762年8月31日〈宝暦12年7月12日〉)。諱は遐仁(とおひと)。幼名は八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)。
桜町天皇の第一皇子。生母は権大納言姉小路実武の女で桜町典侍の藤原定子(開明門院)。父の嫡妻の二条舎子(青綺門院)の「実子」としてその御所で育てられた。
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生涯
延享4年(1747年)、立太子、同年、父の桜町天皇の譲りを受けて践祚[1]。
柳原紀光の随筆『閑窓自語』には、天皇の漢学への造詣の深さが示されている。また、蹴鞠の作法の優美であることも伝えられている[2]。
宝暦7年(1757年)、一部廷臣が垂加流神道説を進講。たちまち天皇は神道説に傾倒したため、関白などが進講中止を諌奏するも聞き入れず、翌年、宝暦事件として表面化[3]。朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰された。
系譜
系図
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
脚注
参考文献
関連項目
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