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実験映画

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実験映画(じっけんえいが 英:Experimental film, experimental cinema)は、映像メディアがもつ既存の手法に依らない独自の表現をめざした映画の総称[1]前衛映画・アバンギャルド映画・アンダーグラウンド映画とも。1920年代ごろからヨーロッパでモダニズム運動と結びついてさかんに製作され、第二次大戦後はハリウッド映画の商業主義に反発するアメリカの芸術家らによって大きな潮流が作られた[2]

概要

多種多様な思想背景をもつ芸術家がそれぞれに独自の試みを行う結果を「実験映画」と呼ぶ以上、そこに共通した定義は成立しないが、その多くは個人の映像作家によってきわめて低予算で製作された短編作品である[1]。映画と呼ばれるもののほとんどが、主にアメリカ映画によって確立された、物語を分かりやすく伝達するシステムを利用しているのに対して、実験映画は、基本的に作家個人の内面・関心・視線に注目する[2]

世界的な映像作家として知られた日本の松本俊夫は、限られた流派や手法によって定義することが困難なほど実験映画は多様であることを前提としたうえで、そこに多く共通するのは「反規格主義であり、反商業主義」だと述べている[3]

それは慣習的、制度的、商業主義的に規格化された映画に対立する映画概念、あるいはそのような映画によって飼育された感性や観念のシステムと摩擦を起こす映画のことである。[3]

このときしばしば標的とされるのは、世界を席巻するに至ったハリウッド映画の手法と物語構造である[2]。1950年代にアメリカの実験映画の動きを主導した映像作家ジョナス・メカスは、ハリウッド映画に代表される従来の映画の表現手法を「劇映画の窒息せんばかりの旧態依然としたスタイル」と厳しく批判した[4]。またニューヨーク大学で長く映画・美術理論を講じたアネット・マイケルソン [英語版] も、メカスらの試みを「ハリウッドとその美学・産業・芸術とを支えてきた中産階級的意識の否認に基づいている」と位置づけている[5]。この点で、「アバンギャルド」という語がもつ本来の意味、すなわち〈既存の表現手法への攻撃・解体による新しい芸術の創出〉という目標を、多くの実験映画作家が共有すると一般にみなされている[2]

戦後日本で活動した映画作家・評論家のドナルド・リチーは、実験映画作家らが商業的な成功を犠牲にする代わりに、作家個人の大きな自由を獲得したと述べている。

商業映画はソロバンにあわなければならない。金もうけするからにはだれかに差障りがあってはならない。いいたいこともいえないわけである。ところが実験映画ではそんな気兼ねはひとつもいらない。ごく限られた少数の人にみせるものだし、金もうけを心配する必要もない。要するに商業映画ではいわしてくれそうもないことがいえるのである[6]
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実験映画の歴史

アヴァンギャルド映画

1920年代に始まった初期の実験映画は、前衛芸術運動・思想と強い関係があり、特にダダイズムシュルレアリスムなどの影響がみられる作品が数多く作られた。その代表作として、1923年にマン・レイが制作した『理性への回帰』(Le Retour à la Raison)、1924年にルネ・クレールが制作した『幕間』(Entr'acte)、1926年にマルセル・デュシャンが制作した『アネミック・シネマ』(Anémic Cinéma)、1928年にルイス・ブニュエルサルバドール・ダリが制作した『アンダルシアの犬』(Un Chien Andalou)、1955年にアラン・レネが制作した『夜と霧』(Nuit et brouillard)などがある。

アメリカの実験映画

アメリカでは、1920年代よりアヴァンギャルド映画・実験映画と呼ばれる作品が作られており、チャールズ・シーラーポール・ストランドによる『Manhatta』(1921)、ジョゼフ・コーネルの『ローズ・ホバート』(1936)などがあるが、盛んになるのは1940年代で、マヤ・デレンアレクサンドル・ハミドとの共作『午後の網目』(1943)、ケネス・アンガーの『花火』(1947)、シドニー・ピーターソンの『The Lead Shoes』(1949)などがある。

1950年代になると、戦後、市場に流れた16ミリカメラを使ってメリー・メンケンの『Hurry! Hurry!』(1957)など多くの実験映画が制作された。

日本の実験映画

日本国内でも戦前から実験映画と呼ぶことができる作品が制作されていたが、個人映画として実験映画が作られ始められたのは1950年代からである。

1960年代、京都、大阪、札幌にて行われたアメリカ実験映画を紹介する上映企画「アンダーグラウンド・シネマ/日本・アメリカ」によって実験映画を知らしめ多くの支持を受けた。このことにより実験映画は鑑賞するのみならず、自身で撮影し創りだす映画であるという意識を日本の観客に植え付けることとなった。

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実験映画作家

海外の実験映画作家

ヨーロッパの実験映画作家

主な作家にルイス・ブニュエルサルバドール・ダリルネ・クレールフェルナン・レジェマン・レイハンス・リヒターオスカー・フィッシンガーレン・ライ英語版ローラ・マルヴェイシャンタル・アケルマンサリー・ポッターアイザック・ジュリアン英語版など。

北米の実験映画作家

主な作家にマヤ・デレンハリー・スミスジョナス・メカスケン・ジェイコブズジャック・スミス英語版ケネス・アンガースタン・ブラッケージマイケル・スノウ英語版ホイットニー兄弟ナサニエル・ドースキーアンディ・ウォーホルブルース・ベイリーなど。

日本の実験映画作家

戦前

衣笠貞之助岩崎昶中井正一荻野茂二など。

(以下は今では見られない作品)

森紅『或る音楽』(1932)、岡野卯馬吉『幻想』、金子安雄『水と光の交響楽』(いずれも1933)、阿保祐太郎『或る音楽的感興』、坂本為之『赤と青による習作 アレグロ二重奏』、今枝柳蛙『音を伴ふ習作』(いずれも1935)

戦後~1960年代

松本俊夫山口勝弘、グラフィック集団(石元泰博大辻清司辻彩子)、飯村隆彦高林陽一大林宣彦足立正生城之内元晴ドナルド・リチー(Donald Richie)、寺山修司三島由紀夫など。

1970年代

金井勝かわなかのぶひろ田名網敬一鈴木志郎康相原信洋古川タク奥山順市居田伊佐雄山崎博萩原朔美出光真子中島崇中谷芙二子中嶋興など。

1980年代

伊藤高志山田勇男、メタフィルム(映画についての映画)の森下明彦太田曜山崎幹夫加藤到、IKIF(石田木船映像工場Ishida Kifune Image Factory、木船徳光石田園子の二人で結成)、黒坂圭太山村浩二黒澤潤など。

1990年代

大木裕之和田淳子寺嶋真里末岡一郎帯谷有理村上賢司など。

2000年代

石田尚志井上タケシ(QOOV)牧野貴宮崎淳辻直之和田淳大山慶清古尊など。

2010年代

石川亮、池添俊、磯部真也、大内里絵子、南俊輔など。

実験映画の上映

日本国内での実験映画の上映に関しては、東京都渋谷区にあるシアター・イメージフォーラムと東京都渋谷区恵比寿にある東京都写真美術館で毎年行われる恵比寿映像祭アナログメディア研究会8mmFILM小金井街道プロジェクトUPLINK渋谷LUMEN galleryマルバ会館EZO FILMVIDEO PARTYスパイスフィルムが挙げられる。

シアター・イメージフォーラムのイメージフォーラム・シネマテークでは、実験映画に関する特集が組まれた上映が行われる。また、毎年、映像アートの祭典である「イメージフォーラムフェスティバル」(2018年より、「東アジア・エクスペリメンタル・コンペティション」が名称に追加された。)が開催され、国内外の実験映画の公募と上映を行なっている。

恵比寿映像祭は、2009年から始まった映像とアートの国際的な祭典であり、上映だけでなく、パフォーマンスやインスタレーション作品の展示、またトークセッションも合わせて行われる。

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出典

関連文献

関連項目

外部リンク

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