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尊賞法親王
江戸時代前期の法親王 ウィキペディアから
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尊賞法親王(そんしょうほうしんのう、元禄12年11月22日(1700年1月11日) - 延享3年9月24日[1](1746年11月7日))は、江戸時代中期の法親王。霊元天皇の第十四皇子で、母は藤式部(今城定淳の娘)。幼名は多喜宮、諱は庶賢。初名は尊昭。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある[2]。
経歴
元禄13年(1701年)、一乗院の真敬法親王の弟子になることが決まり、宝永5年(1708年)に一乗院に入室する。翌宝永6年(1709年)3月に親王宣下を受けて庶賢と名乗り、翌月出家して尊昭と称する。正徳4年(1714年)に興福寺の別当となり[3]、元文2年(1737年)まで務めている。
享保2年(1717年)、興福寺が火災にあって金堂など主要建物の多くを失ったため、その再建に奔走した。享保19年(1734年)には名を尊賞と改めている。
延享3年9月24日に48歳で薨去。ただし、その薨去は暫く秘され、牛車宣旨を受けた後の10月10日付で死去が公表された[1]。諡号は広荘厳院。
脚注
参考文献
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