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小栗忠道

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小栗 忠道(おぐり ただみち、弘化4年?(1847年頃) – 慶応4年閏4月7日1868年5月28日))は、江戸幕府末期の人物で、小栗忠順(上野介)の養嗣子。通称は又一

概要

小栗忠道は、後に幕府大目付勘定奉行を務めた駒井朝温(甲斐守)の次男として生まれた[1]。忠順の養女・鉞子の許嫁として小栗家に養子入りし、忠順が開いた仏語伝習所に第1期生として入り、フランス式の兵学・軍事教練を受けた[1]

その後、幕府の歩兵差図役頭取に任じられるなど、若くして軍事分野で活躍した。明治元年1868年)2月、江戸幕府崩壊後は忠順とともにその所領の上野国に戻り帰農した。

同年閏4月、新政府軍が高崎へ進軍すると、忠道は父忠順の命により「他意なき旨」を伝達するため使者として出向いた。しかし受け入れられず、捕縛されて処刑された。忠道は高崎城下で塚本真彦ら家臣3名とともに斬首され、享年21であった[2]

忠順一行の処刑は二段階で行われ、烏川河原で家臣3名が先に斬首され、忠道は翌日に高崎城下で処刑されたと伝えられる[2]。その首級は忠順の首級とともに館林に送られて首実検が行われ、その後いったん現地に埋葬されたが、のちに村人により奪還され、忠順の胴体が埋葬された東善寺裏山に合葬された[2]

戒名は、戒名は尚栖院殿及懿尽義居士。(初め花山院折山貞松)[3]。処刑の際には、高崎藩士の堀江蔵太が斬首役を命じられたという。

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脚注

参考文献

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