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小河信俊
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小河 信俊(おがわ のぶとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。龍造寺氏の家臣。
![]() | この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2023年6月) |
略歴
永禄元年(1558年)、隆信の執権である小河信安とその嫡子・豊前守が神代勝利との戦で討ち死にすると、小河の名跡が絶えるのを惜しんだ隆信の命により、信安の娘を娶って小河氏を継いだ。
永禄4年(1561年)の神代勝利との再戦では、隆信の実弟・龍造寺信周の陣に属して戦い、翌年の肥前有馬氏との戦いでは隆信の旗本衆に属して戦った。元亀元年(1570年)に大友氏が攻めてくると大将の一人として戸次鑑連(後の立花道雪)勢へ打ち掛かり、それより間も無く発生した今山の戦いの際は、兄・鍋島直生(後の直茂)の後詰として西高木にまで出陣したが、兄が勝利したと知り帰城している。
その後も小田鎮光や平井経治、大村純忠攻め等に大将として参加、隆信の後継である龍造寺政家の政権下では納富家理・土肥家実と共に宿老となった。
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出典
- 『北肥戦誌(九州治乱記)』(青潮社・1995年1月)
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