トップQs
タイムライン
チャット
視点
小野義成
ウィキペディアから
Remove ads
小野 義成(おの よしなり)は、鎌倉時代初期の武将。横山党。
経歴
弓を能くし、建久3年(1192年)1月の御的始では射手を務めた[1]。間もなく、上洛したものと推定され、源頼朝没後の正治元年(1199年)2月、土御門通親襲撃を謀ったが、発覚し一条家の家人後藤基清や中原政経らと共に鎌倉に送られ、のち配流となった[1]。これを三左衛門事件と呼ぶ。間もなく赦され、元久2年(1205年)閏7月、北条時政の失脚を九条良経に伝えている[1]。
翌年の建永元年(1206年)9月に延暦寺の堂衆が蜂起すると院御所を警固し、子の成時と共に謀反人の八島時清を法性寺付近で討った[1]。承元元年(1207年)1月、従五位下に昇叙され、この頃より子の成時と共に後鳥羽上皇に仕え、成時は同月に院御所で行われた笠懸の射手を務めた[1]。義成は検非違使となり、防鴨河使を兼任したが、承元2年(1208年)閏4月3日[2]京都で没した[1]。
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads