トップQs
タイムライン
チャット
視点

山県昌次

ウィキペディアから

Remove ads

山県 昌次(やまがた まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。『寛永諸家系図伝』では実名を「守光」としているが、通字を「守」としている点から誤伝であることが指摘される[1]

概要 凡例山県昌次, 時代 ...

略歴

三枝虎吉の末子[1]として誕生。

三枝氏の出自であるが、父・虎吉や兄・昌貞と同様に武田家の譜代家老・山県昌景から山県姓を与えられる[1]天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは山県昌景が戦死しており、『寛永伝』によれば昌次も討死したという、享年26[1]

高野山の『武田御日坏帳ニ番』によれば天正4年(1576年)10月18日に高野山において供養が営まれた。同史料では「昌次」の実名が判明し、甲府の広小路に兄・昌貞とは別の屋敷を構えていたことが判明する[1]

脚注

出典

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads