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岸田忠氏
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岸田 忠氏(きしだ ただうじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和国岸田領主。実名は晴澄(はるずみ)とも[1]。
生涯
はじめ大和国の戦国大名・筒井順慶に仕え、2,000石を領したが、筒井家が筒井定次の代に伊賀国へ転封となると、大和を治めた豊臣秀長や養子・秀保に仕えた。
秀保の死後[注釈 1]は豊臣秀吉の家臣となり、大和山辺郡岸田(現在の奈良県天理市岸田町付近)において1万石を賜る。
慶長3年(1598年)8月、秀吉の死に際して遺物則重の刀を受領。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、8月11日に東軍を撹乱するために三河国藤川に放火を試みるが失敗し、町民に武装を解除され、家臣の岸田弥右衛門が処刑された[2]。9月15日の関ヶ原本戦では、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として織田信高、伊藤盛正らと小西行長の陣営に加わり戦ったが敗れたため、改易となり、慶長6年(1601年)11月に陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられた。
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子孫
子の右近も、父と同様に南部家預けになっている[3]。
正保2年(1645年)に定められた盛岡藩の正月儀礼において、岸田右近は宮部兵蔵(岸田家同様、関ヶ原合戦後に南部家に預けられた宮部長熙の子)とともに、
脚注
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